平田淳嗣




















































平田 淳嗣
プロフィール
リングネーム
スーパー・ストロング・マシン
魔界1号
ストロング・マシン1号
ブラック・ストロング・マシン
スーパー・ラブマシーン
サニー・トゥー・リバーズ
平田 淳嗣
平田 淳二
本名
平田 淳嗣(旧名:平田 淳二)
ニックネーム
心優しき無頼漢
戦慄の殺人魔神
青義軍の名参謀
機械の中の機械
身長
183cm
体重
115kg
誕生日
(1956-12-20) 1956年12月20日(62歳)
出身地
神奈川県平塚市
所属
新日本プロレス
スポーツ歴
柔道
デビュー
1978年8月26日
引退
2018年6月19日
テンプレートを表示

平田 淳嗣(ひらた じゅんじ、1956年12月20日 - )は、日本の元プロレスラー。本名:同じ、旧名:平田 淳二(読みは同じ)。神奈川県平塚市出身。元新日本プロレス所属。


デビュー時のリングネームは、当時の本名である平田淳二だったが、その後、本名自体を平田淳嗣と改名したため、リングネームも改名した。そのレスラーとしてのキャリアにおいて、覆面レスラーのストロング・マシン1号またはスーパー・ストロング・マシンのリングネームで特に知られる。


派手なテクニックや大技は無いが、大きく頑丈な体躯と長いキャリアを生かした重厚なレスリングを身上としている。若い頃は飛び技なども器用にこなす万能型のレスラーであり、華麗なジョージ高野、過激な前田日明、パワーの平田の三羽烏で期待された。また、フィニッシュ・ホールドの「魔神風車固め」をここ一番という時にのみ使用することで、唯一無二のオリジナル技としての説得力を持たせ続けていた。




目次






  • 1 来歴


  • 2 マスクマンとしての平田


    • 2.1 ストロング・マシン


    • 2.2 スーパー・ストロング・マシン




  • 3 リングネーム


  • 4 得意技


  • 5 獲得タイトル


  • 6 エピソード


  • 7 CM出演


  • 8 参考文献


  • 9 脚注


  • 10 外部リンク





来歴


神奈川県立平塚工科高等学校時代から柔道やボディビルで身体を鍛え、その後高校を中退し、渋谷の新聞販売店に住み込みながら新聞配達のアルバイトで生計を立てていたがプロレスラーへの夢は断ちがたく、店長に誘われて1977年10月25日に行われたアントニオ猪木VSチャック・ウェップナーを観戦に行った際に購入したパンフレットに掲載されていた「レスラー募集」の広告を見て、山本小鉄に手紙で入門を直訴する。大田区体育館で行なわれた入門テストに合格し、1978年5月に新日本プロレスに入門[1]。8月26日の長野県飯山大会における藤原喜明戦でデビュー。「長州2世」と呼ばれ、ジョージ高野や前田明らと前座で好勝負を展開した。


1982年11月にメキシコ遠征に出発。メキシコではカネックのUWA世界ヘビー級王座に2度挑戦した他、エル・ソリタリオやドス・カラスともタッグを組んだ[2]。1983年にカナダのカルガリーに転戦し、スチュ・ハートが主宰していたスタンピード・レスリングにて、サニー・トゥー・リバーズSonny Two Rivers)のリングネームでインディアン・ギミックのベビーフェイスとして活躍[3]。1983年11月18日にはザ・コブラ(ジョージ高野)から英連邦ミッドヘビー級王座を奪取、1984年3月2日にロン・スターに敗れるまで戴冠した[4]。髪はモヒカン刈りで、リング上ではインディアンのダンスや雄叫びを披露、技もトマホーク・チョップやインディアン・デスロックを用いた(平田は、ワフー・マクダニエルをイメージしていたと語っている)[5]。試合内容はジン・キニスキーからも絶賛されたという[3]。海外で活躍する日本人レスラーを紹介する番組にて、マスクド・スーパースターに挑戦するタイトルマッチが取り上げられたこともある(その時のレポーターは、引退して間もなかった女子プロレスラーのタランチェラ)。スタンピード・レスリングではヒロ斎藤、バッドニュース・アレン、キューバン・アサシン、ビッグ・ジョン・クイン、マイク・ショーなどとも対戦し、タッグではブレット・ハート、ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス、ジェリー・モロー、ミスター・ヒト、フィル・ラフルールらのパートナーを務めた[6][7]。また、この当時、マサ斎藤や長州とAWA地区ミネアポリスで接触し、プロレス雑誌で維新軍入りと伝えられたが、帰国命令が出なかったため実現せずに終わる。


8月に坂口征二からの要請により帰国[8]。直前にはキラー・カーンからフリッツ・フォン・エリックが主宰していたWCCWへの参戦をアプローチされていたが、帰国命令により立ち消えになった[8][9]。帰国後はマネージャーの将軍KYワカマツ率いる「マシン軍団」の一員として若松に操られる機械という設定の覆面レスラー「ストロング・マシーン」にギミック変更し、8月24日の後楽園ホール大会にて目出し帽を被り、アメフト用のプロテクターを着用して初登場した。当時、記者がマシーンに話しかけると「ギギギ…ガガガ…」という機械音が聞こえた、という記事が新聞紙上を飾っている。後年このことを記者がたずねると「屁でもした音だろ」と答えた。9月7日、福岡スポーツセンターのメインでアントニオ猪木とシングルマッチで対戦。これがストロング・マシーンでのデビュー戦となる。


1985年4月に「マシン軍団」と仲間割れ(藤波辰巳との決着戦をワカマツがパウダー攻撃でぶち壊したため)。5月17日の熊本県立総合体育館大会には藤波の試合後に乱入したワカマツを蹴散らして救出したが、藤波から「お前、平田だろ!?」とマイクパフォーマンスで公然の秘密を暴露され、マスクを脱いで立ち去ったが、タオルを頭から被ったままマスクを脱いだため、素顔を窺い知ることは出来なかった[9]。一連の流れから正規軍入りするかと思われたが、「スーパー・ストロング・マシーン」に改名後も、正規軍とは距離を置いてファイトする。


藤波がヘビー級に転向してから体格的に使うことが出来なかったドラゴン・スープレックスを2度もしかけられている(そのうちの1度はワカマツのパウダー攻撃が災いしピンフォール負け)。7月19日に札幌中島体育センターで行われた藤波とのWWFインターナショナル・ヘビー級王座戦では、マシン軍団の乱入に遭い、無効試合となっている。


その後、8月にヒロ斎藤や高野俊二と「カルガリーハリケーンズ」を結成して1986年に全日本プロレスに参戦した。この間阿修羅・原とアジアタッグ王座を獲得している。


全日時代では、先に新日から移籍した長州と抗争。決着戦でも決着がつかず、1986年9月20日に相模原市立総合体育館で行われた試合では、エキサイトの余り自らマスクを脱ぎ、長州に叩きつけ(ただしセコンドの高野俊二が、タオルで素早く頭を覆い素顔を隠した)、その試合は『全日本プロレス中継』で生中継されたが、マスク脱ぎの場面はCM中であったために放送されず、EDの提供クレジットでリングサイドに脱ぎ捨てられたマスクが映し出された。このころの長州はマシンに関するインタビューでは頻繁に「アイツはマスクを脱ぐべき」と言っていた(ちなみにそれから実に17年後にWJプロレス興行内で長州とシングルで対決しピンフォール勝ちをおさめている)。同年6月12日には天龍源一郎のUNヘビー級王座に挑戦、奪取には失敗したものの全日時代の名勝負として語られている。


1987年、長州らと共に、新日本プロレスに復帰。


1988年、長州の「俺らが今時代を変えるんだ」という呼びかけがありNEWリーダー軍として長州・藤波・前田・木村健吾らと共闘し、アントニオ猪木・坂口征二・マサ斎藤・星野勘太郎・藤原(助っ人にディック・マードック・武藤敬司)らのNOWリーダー軍と世代闘争を行なった。


この年、若手時代のライバル前田日明と共闘することになったが、別選手(マサ斎藤)との試合のため入場して来た前田にリング下で握手を求めるが無視され激怒し、頭突きと鉄柱攻撃で大流血に追い込んで遺恨となり、5年振りにシングルで対戦。名勝負の末、故障中の肩にチキンウイングアームロックをかけられドクターストップが入り敗れる。


1989年にジョージ高野とのタッグ(烈風隊)でIWGPタッグ王座を獲得した。烈風隊というチーム名は高野が考案したものだが、あまり強そうな名前でないため平田は「ジョージは(頭の中身も)ハーフだから」と困惑した。王座陥落後に、平田がブロンド・アウトローズ(ヒロ斎藤、後藤達俊、保永昇男)と共闘したこと、及びジョージ高野がSWSに移籍したことから、烈風隊は解散。その後、1990年にヒロ斎藤とのタッグで、再度IWGPタッグ王座を獲得している。後にブロンド・アウトローズはレイジング・スタッフと名を変えたが、一時期全員がカラフルなマスクを被り「マシン軍団」の再来を演じたこともある。1992年夏には札幌でIWGPヘビー級王座長州に挑戦。また、仲間割れにより後藤が反選手会同盟に鞍替えした後、平田はWARのリングに参戦し、阿修羅・原と共闘して反WAR軍の一員となる。


1994年10月、SGタッグリーグにフリーであったマシンが一匹狼の蝶野正洋を誘う形でタッグを組んで出場。当時ヒール転向したばかりの蝶野が出場の意欲を持たない社命によるエントリーであった。その過程で『因縁』が積み重ねられていった(タッチ拒否、ラリアットやケンカキックの誤爆への報復、1人ずつの入場、パートナーであるマシンにマスク剥ぎ等)。マシンも徐々に蝶野に対し怒りをあらわにするようになる。しかし社命への反発心や相互の意地が白星を生む結果を積み重ねるにつれ、互いに認める部分が大きくなり、リーグ戦終盤には蝶野から「マシン『さん』、俺ら優勝するんですよね」との言葉が出るようになる。葛藤を乗り越えついに優勝決定戦(VS武藤・馳浩組)に進出するが、平田は試合中にパートナーである蝶野から意図的な攻撃やSTFを決めた際にカットを受け、タッチ拒否や救援に入ろうとしない態度に激怒し、蝶野にラリアットを見舞った後自らマスクを脱ぎ蝶野の顔に叩きつけた。会場はそれまでマシン(平田)に対し「マ・シ・ン! マ・シ・ン!」のコールを送っていたが、この瞬間尋常ではない勢いの「ヒ・ラ・タ! ヒ・ラ・タ!」の大合唱で包まれた。この行動により蝶野は試合中にリングを去り、孤軍奮闘した平田だったが最後は武藤のムーンサルトプレスに力尽きフォール負け。試合後、リング上で「こんなしょっぱい試合ですいません!」とファンに謝罪。蝶野は試合後、浮かなかったマシンが自分を利用して大舞台でマスクを脱ぐために上がってきたと批判した。


SGタッグリーグ優勝決定戦の決裂直後に蝶野との遺恨シングルマッチ3連戦が組まれ対戦するが、初戦では蝶野にSTFをチョーク気味にかけられ泡を吹き白目をむいてしまい試合後に藤波から叱咤される。しかしその後の対戦でマンハッタン・ドロップからの首固めでピンフォール勝ちを収め一矢報いた。


その後は平田淳嗣として新日本に復帰入団、正規軍で活動するようになり、蝶野とのタッグでブレークを狙う天山の前に橋本とのタッグで立ちはだかる。1995年7月に橋本真也と蝶野・天山広吉組を破り再びIWGPタッグ王座を獲得した。この戴冠は自ら蝶野をジャンピング・パワーボムで葬ったものであり、この時期の平田は第二の全盛期と言っていい活躍を見せた(蝶野や天山、越中、馳からシングルでピンフォール勝ち・タッグではスタイナーやホークウォリアーからも魔神風車でカウント3を奪う等)。タッグ結成時には半信半疑だった橋本も、次第にパートナーとしての実力に全幅の信頼を置く発言が増えるようになる。勢いに乗って当時武藤が持っていたIWGPヘビー級王座にも挑戦したが(1995年9月25日・大阪府立体育会館)、戴冠はならなかった。


1999年から選手会長として「まとめ役」に徹していたが、同時期のレスラー活動では「スーパー・ストロング・マシン」や星野総裁率いる「魔界倶楽部」の「魔界1号」として、マスクマンとしても活動している。この時期「魔界2号」筑前から、自分と「烈風隊」を再結成してくれとの発言を受けたが明確に解答しないまま現在に至っている。またラブマシンズの一員である「スーパー・ラブ・マシン」として全日本マットにも登場した。蝶野率いる「ブラック・ニュー・ジャパン」では「ブラック・ストロング・マシン」としての活動を経たこともある。


2005年に現場責任者の地位に後藤とともにつくが、新日本に復帰してきた長州に雷を落とされ、一方的な解任処分を受ける。これを機に再び反体制勢力に回っている。


2006年単発興行「WRESTLE LAND」のスポークスマンとなる。記者会見で「マシンは『誰が来ようが、覚悟しておけ!』とも言っていました」と発表し、マシンと平田は別キャラクターである設定を再度用い始めた。


2007年は長州・蝶野と和解し、レジェンドを結成。スーパー・ストロング・マシンとして活動中。平田本人は「目のケガのため欠場」ということになっており、会場から試合を観戦して若手にアドバイスを送っているとされる。


2009年からは永田裕志、井上亘、平澤光秀らと青義軍を結成し、参謀役としてメンバーの背中を押している。


2009年以降シングルマッチを行っておらず、試合出場自体も2011年8月のALL TOGETHER以降無くなっていたが、2013年3月10日開催の旗揚げ記念日にて554日ぶりに試合に出場した。


2013年4月以降は新日本プロレス公式サイトの選手一覧ページに名前が載っているものの試合出場が全く無く、事実上の休業状態となっていた。この間は新日本プロレス道場で練習生のコーチを務めている事が若手選手のインタービュー等で明らかになっている。


2018年1月、新日本プロレスと契約が切れる[10]。4月12日、新日本プロレス公式サイトにてプロレスラーとしての引退を正式に表明し、引退セレモニーが行われる事が発表された[11]。体調面の理由から引退試合は行わない旨も発表された為、2014年4月2日開催の後楽園ホール大会が平田の事実上のラストマッチとなった[12]


6月19日、後楽園ホールにて引退興行を開催。メインイベントとなるスーパー・ストロング・マシン引退記念試合には、新生マシン軍団[13]VSロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンのフルメンバーによる10人タッグマッチが組まれ、自身のマネージャーを務めた将軍KYワカマツと共に、新生マシン軍団のセコンドとして登場しリングサイドで試合を見守った。試合終盤では対戦相手チームの一人だった内藤哲也に対してラリアットを喰らわせマシン軍団の勝利に貢献し[14]、試合終了後に引退セレモニーを行った。マシンは引退の理由として、度重なる怪我によって受け身も取れない状態が続いたこと、そして長年共に人生を歩んできた妻が癌によって亡くなったことを告白。気持ちを吹っ切るために第二の人生を歩むことを決意したと話し、最後にリング上で妻への感謝の言葉を叫び、感動のセレモニーを締めくくった[15][16]


2019年3月8日、実子であるストロングマシーン・Jのデビュー会見に出席。「マシンの遺伝子を継いでくれる。こんなにうれしいことはない」と感想を語った[17]



マスクマンとしての平田



ストロング・マシン


デビュー当初は「ストロング・マシーン」の呼称・表記だったが現在は「ストロング・マシン」と呼称・表記される場合が多い。


将軍KYワカマツに操られる設定で1984年8月24日に後楽園ホールに初登場し、後に2号も出現してマシーン軍団として活動。以降も増殖を続け、3号と4号も登場した。


マシンの本名・経歴・趣味・好きな有名人は不明だが、週刊プロレスの選手名鑑には必ず「好物は中華料理」と6年間載っていた。ブラックになってからはカツカレーに変わっている。


レスラーとしての評価も高いが、ストロング・マシーンのマスクもはデザイン・機能性など評価は高い。マスクの目元や口元の開口部は大きいが、二重メッシュ(網目)構造でラメが施されている為キラキラと輝き、素顔は全く見えない。赤、緑、紫、黒系統のマスクを使い分けていた。WAR参戦時に、口の部分が開いたマスクを着用したこともある。額にはSのデザイン文字が入るがレイジング・スタッフ時代はRSとなっていた。デザインは楳図かずおの作品「笑い仮面」に登場するマスクの不気味さを気に入って取り入れ、平田自身が発注した[18]


桜庭和志がPRIDEのリングに登場する際にマシン風のマスクを被って以来現在でも「仮面39ライダー」のキャラクターとして使われている。一時期、ストロングマシン39号とも名乗っていた。


桜庭のほかにも、プロレスラーでは高野俊二、アンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースター(ビリー・クラッシャー)、ハルク・ホーガン、安生洋二、後藤達俊、石澤常光、高木功、杉浦貴、高山善廣、青木篤志などが次々とマシンマスクを被るため、マシン軍団は現在も増殖し続ける。嘗てのマネージャー若松市政(将軍KYワカマツ)は芦別市議会議員に転じたため、マシン軍団と疎遠となってしまったが、プロレス誌のインタビューで記者からこのことを聞き、「マシンは今も増えてるんですか?。嬉しいなあ」と、マシン軍団の増殖ギミックを喜んでいた。



スーパー・ストロング・マシン


「マシン軍団」から離れて活動するようになった以外は、外見上のデザインはほとんど変化が無かった。


2006年5月13日に行われた第1回WRESTLE LANDにて、久々にスーパー・ストロング・マシンとして試合を行った。今日でも会場人気は高く、「おまえは平田だろ〜」という野次が絶えない。これに対してS・S・マシンは「誰が平田だ」とやり返す。永田裕志が率いる青義軍に加入してからは、マスクの色をメタリックブルーに改めた。


対戦相手が不甲斐無い試合をして負けると、試合後に「○○(対戦相手の名前)が、しょっぱい試合ですいません」と、対戦相手を揶揄するマイクパフォーマンスをした。


また2009年に放送された「アメトーーク」に取り上げられて以来再び注目を集めた。


2014年以後は試合に出場することがなく、2018年6月19日に引退試合は行わずにリングを去った[15][16]



リングネーム


平田淳嗣が名乗ったことがあるリングネーム。



  • 平田淳二

  • サニー・トゥー・リバース

  • ザ・ストロング・マシーン

  • ザ・ストロング・マシーンNo.1

  • ストロング・マシーン1号

  • スーパー・ストロング・マシーン

  • スーパー・ストロング・マシン

  • 平田淳嗣

  • 魔界1号

  • スーパー・ストロング・魔神

  • スーパー・ラブ・マシン

  • ブラック・ストロング・マシン

  • マスクドCTU-MZ

  • 平田淳嗣スポークスマン



得意技



魔神風車固め


マシン・スープレックスとも呼ばれる。自身が考案したオリジナル・ホールドで、相手の片腕をチキンウイングに極めて放つハーフハッチ・スープレックス・ホールド。稀に投げ捨て式でも放つ。「マシン」というリングネームに「魔神」の字を当てている。両腕で相手の体を固定するため首だけでブリッジをせねばならない難易度の高い技。また、この技を受けた馳浩が肩甲骨を骨折したことがあり、受ける方にとっても危険な技である。

ライガー・ボム

フィニッシュにも用いていた。

ダイビング・ヘッドバット

平泳ぎのように自身の両腕を交差させながら放つ。フィニッシュとしても用いられた。

マシン・ラリアット

相手をコーナーに振ってすかさず追いかけ串刺し式で放つものは特に追っかけラリアットと呼ばれた。

DDT

上記の追っかけラリアットを放った後に、その勢いを利用して、この技に繋げる連携も一時期よく見せていた。

ジャーマン・スープレックス

平田の場合は滞空時間が長いことが多い。

セントーン

平田の場合は助走しないで、その場で両足を踏み揃えてジャンプするフォームを使用。

プランチャ・スイシーダ

大一番でのみ放った。コーナー最上段から場外へ向かって飛ぶ。



獲得タイトル


新日本プロレス


  • IWGPタッグ王座: 3回(w / ジョージ高野、ヒロ斎藤、橋本真也)

全日本プロレス



  • アジアタッグ王座: 1回(w / 阿修羅・原)

  • 英連邦ミッドヘビー級王座[4]



エピソード


新日本に入門する前に一度全日本プロレスに入門していたが、父親が脳梗塞で倒れたためにデビュー前に退団した[18]


平田は飲みに行き、夜中にタクシーで合宿所に帰宅して、トイレに行きたかったため玄関からズボンやパンツを脱ぎ捨ててトイレに向かったが間に合わず、トイレ手前の廊下にウンコを落としてしまった。その後、起きてきた前田がでっかいウンコの上にあるデッカイ足型から「これはジョージやな!?」と「ジョージ、女の子にもてても、うんこったれじゃあかんやないか!?」と問いつめるも、ジョージは「いや、俺じゃない。朝起きてトイレに行こうと思ったらウンコ踏んじゃった」と言い、横にいた平田が「スマン、俺だ」と告白し、ウンコったれの犯人は平田であった。後年、マシンと闘った前田は耳元で「このウンコったれ」と囁くと平田は激怒し、前田をボコボコにし、前田は「痛かった・・・」と証言している。


新日本プロレスの合宿所の寮長をやり(前任は前田日明)、外泊禁止なのに寮長でありながら頻繁に朝帰りをしていた。


メキシコ武者修行出発直前に、小林邦昭から「日本円で1000万円貯まった」と電話が入った。その直後にメキシコ・ペソが暴落し、平田はショックで練習を休み、部屋に引きこもっていたという[2]。メキシコ武者修行当時、一緒に遠征していたジョージ高野、ヒロ斎藤、保永昇男らが、環境が合わず痩せていく中で唯一、平田だけが増量していたため、取材に来た記者達に「何食って太ったんだ?」と不思議がられた。


新日内で、当時人気の高かった漫画『キン肉マン』をモチーフにした覆面レスラーの企画が持ち上がり、ストロング・マシーンになる前の平田がリストアップされた。本人は当初嫌がっていたものの、周囲の勧めもあり一度は決意していた[10]。しかし作者のゆでたまごや集英社の了承を得ていなかったため、クレームが付き、企画は没となっている[9]。キン肉マンの話が流れた後は改めて平田淳嗣として凱旋復帰する話になっていたが、この時の経験を経てマスクマンの面白さを知った平田はこれを拒否し、自らマスクを発注し、ストロング・マシーンとしてデビューする事になる[18]


ただし、ストロング・マシーンとなる直前に「謎のマスクマン」として覆面の上に目出し帽を付けて登場している。その際、わずかに覗くマスクや頭頂部がとがっている等の特徴から、実際にキン肉マンの覆面をしていたのではないかという説もある。またその目出し帽での登場の際に、ある記者が「彼は何者か?」と聞いたのに対し、ワカマツが「ストロングなマシーンだ」と答えたことが、ストロング・マシーンの命名の由来であるという説もある。当時、マシーンはキャリアが浅くて試合作りに長けておらず、場外にエスケープした際にワカマツが間をつくってくれるのが助かった、と平田は述べている[19]


上記の通り平成元年時分は、ジョージ高野とのタッグで「烈風隊」を結成していたが、結成当時は共にあまり陽が当たらずそこそこの実力者ながら、戦績が良くないといった選手同士のタッグであったが、IWGPタッグを獲得するといった名タッグチームとしての実力を発揮した。


2005年7月に放映された日本マクドナルドの新製品「ペッパーチーズダブルビーフ」のCMにおいて、後藤達俊とともに棚橋弘至・中邑真輔の相手役を務めた。


プロレス雑誌のインタビューで、マスクを剥がされる時の気分について聞かれ、「パンツを脱がされるのと同じ気分だよ」と発言したことがある。


「マシン・ボイス」と呼ばれる独特のかすれてこもった声が特徴。スポークスマンとして会見を行う際も言葉が聞き取りにくいほどである。リング上で興奮状態で怒鳴るマイクアピールは観客も何と言っているのか全くわからない。


2009年8月13日の名古屋での試合後、タッグマッチで対戦した杉浦貴から「おいマシン! お前、やっぱり平田だろ」とマイクで挑発された。その挑発に対して俺は平田ではないと否定した後「名古屋のみなさん。杉浦君がしょっぱい試合をしてすいませんでした」と切り返し観客の笑いを誘った。


ザ・コブラのマスクを辞めた直後のジョージ高野との試合前のインタビューで「俺はね、あんな中途半端にマスクを脱ぐような奴とは違うんだよ、あんな腰抜けに俺が負けるわけねえんだよ!」と決めた。しかし、直後にアナウンサーに「それは高野選手がマスクマンだったと言うことですか?」と、高野=ザ・コブラを暗示させる質問をされ、「そうだよ。悪いかい?」と意気消沈した。『アメトーーク』で名シーンとしてこのインタビューを紹介した有田哲平は「『やっちゃった…』って顔してるのがマスク越しにも分かる」とコメントした。


前述の『アメトーーク!』で扱われた際に、ガリットチュウの福島善成に似てると言われ、放送時には福島が平田のポーズを真似したワイプ画像が映された。


新日本プロレスとの契約が切れる6日前に妻に先立たれている[20]



CM出演


  • マクドナルド「ペッパーチーズ・ダブルビーフ」(2005年7月13日、日本マクドナルド)[21]


参考文献



  • 『Gスピリッツ Vol.28』 辰巳出版、2013年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 4777811743。

  • 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.18』 ベースボール・マガジン社、2016年。
    ISBN 9784583624181。



脚注





  1. ^ 『日本プロレス事件史 Vol.18』、P80

  2. ^ ab『日本プロレス事件史 Vol.18』、P82

  3. ^ ab『Gスピリッツ Vol.28』、P88

  4. ^ ab“Stampede Wrestling British Commonwealth Mid-Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年7月5日閲覧。


  5. ^ 『Gスピリッツ Vol.28』、P89


  6. ^ “The Stampede matches fought by Super Strong Machine in 1983”. Wrestlingdata.com. 2019年3月23日閲覧。


  7. ^ “The Stampede matches fought by Super Strong Machine in 1984”. Wrestlingdata.com. 2019年3月23日閲覧。

  8. ^ ab『Gスピリッツ Vol.28』、P90

  9. ^ abc『日本プロレス事件史 Vol.18』、P83

  10. ^ ab“新日本プロレスを支えたスーパー・ストロング・マシンがふり返る“二番手人生”「『なんであんなこと言ったんだ!』って怒られたけど気にしなかった」”. 週プレNEWS. 2018年9月28日閲覧。


  11. ^ “スーパー・ストロング・マシン選手が引退表明! 6月19日(火)後楽園ホール大会にて引退セレモニーが決定!”. 新日本プロレス (2018年4月12日). 2018年4月12日閲覧。


  12. ^ “Road to Invasion Attack 2014 〜井上亘引退記念大会〜”. 新日本プロレス. 2018年4月12日閲覧。


  13. ^ S・Sマシン・ドン、S・S・マシン・ジャスティス、S・S・マシン・バッファロー、S・S・マシン・エース、S・S・マシン・No.69の5人組。各レスラーの正体は一応非公開であるが、リングネームや試合中のムーブから正体が明らかである上に、素顔がマスク越しに透けて見えるのが確認可能であった。


  14. ^ “スーパー・ストロング・マシン引退試合で「マシンは今日で消えます。ありがとうございました」”. スポーツ報知 (2018年6月20日). 2018年6月20日閲覧。

  15. ^ ab“スーパー・ストロング・マシン、引退セレモニーで告白「一つの理由は妻の死です」”. スポーツ報知 (2018年6月20日). 2018年6月20日閲覧。

  16. ^ ab“SSM、最後の最後に明かした引退理由は妻の逝去”. 日刊スポーツ : nikkansports.com (2018年6月20日). 2018年6月20日閲覧。


  17. ^ “SSマシン息子が「ストロングマシーン・J」でデビュー 同じ覆面レスラーで /デイリースポーツ online” (日本語). デイリースポーツ online (2019年3月9日). 2019年3月10日閲覧。

  18. ^ abc“本当はキン肉マンになるはずだった、スーパー・ストロング・マシン引退。”. Number Web. 2018年4月22日閲覧。


  19. ^ [1]


  20. ^ スーパー・ストロング・マシンが亡き妻への想いを叫び40年のプロレス生活に幕!駆けつけた旧友や仲間に囲まれ「私のプロレス人生に全く悔いはありません」


  21. ^ “棚橋&中邑両選手がTVCMに出演”. 新日本プロレスリング. 2017年11月30日閲覧。




外部リンク


  • 新日本プロレス 公式プロフィール(スーパー・ストロング・マシン)





.mw-parser-output .redirectcatnav{margin:1em auto;border-style:none;text-align:left;font-size:100%;clear:both}.mw-parser-output .redirectcat ul{margin-left:0}






Popular posts from this blog

Identifying “long and narrow” polygons in with PostGISlength and width of polygonWhy postgis st_overlaps reports Qgis' “avoid intersections” generated polygon as overlapping with others?Adjusting polygons to boundary and filling holesDrawing polygons with fixed area?How to remove spikes in Polygons with PostGISDeleting sliver polygons after difference operation in QGIS?Snapping boundaries in PostGISSplit polygon into parts adding attributes based on underlying polygon in QGISSplitting overlap between polygons and assign to nearest polygon using PostGIS?Expanding polygons and clipping at midpoint?Removing Intersection of Buffers in Same Layers

Masuk log Menu navigasi

อาณาจักร (ชีววิทยา) ดูเพิ่ม อ้างอิง รายการเลือกการนำทาง10.1086/39456810.5962/bhl.title.447410.1126/science.163.3863.150576276010.1007/BF01796092408502"Phylogenetic structure of the prokaryotic domain: the primary kingdoms"10.1073/pnas.74.11.5088432104270744"Towards a natural system of organisms: proposal for the domains Archaea, Bacteria, and Eucarya"1990PNAS...87.4576W10.1073/pnas.87.12.4576541592112744PubMedJump the queueexpand by handPubMedJump the queueexpand by handPubMedJump the queueexpand by hand"A revised six-kingdom system of life"10.1111/j.1469-185X.1998.tb00030.x9809012"Only six kingdoms of life"10.1098/rspb.2004.2705169172415306349"Kingdoms Protozoa and Chromista and the eozoan root of the eukaryotic tree"10.1098/rsbl.2009.0948288006020031978เพิ่มข้อมูล