アトガ・ハーン
アトガ・ハーン(Atgah Khan, 生年不詳 - 1562年5月16日)は、北インド、ムガル帝国の政治家・武将。宰相でもある。シャムスッディーン・ムハンマド・ハーン(Shamsu'd-Din Muhammad Khan)の名でも知られる。
目次
1 生涯
2 脚注
3 参考文献
4 関連項目
生涯
1540年、ムガル帝国の皇帝フマーユーンがカナウジの戦いでシェール・シャーに敗れ、象に乗ってガンジス川を渡って逃げる際、安全に着岸できるよう尽力した[1]。それ以降、彼はフマーユーンに近侍することを許され、その妻ジージー・アナガは皇子アクバルの乳母となった[2]。
1556年、フマーユーンが死んでアクバルが皇帝になったが彼のもとでも重用され、乳母の夫ということで養父を意味する「アトガ」で呼び、息子ミールザー・アズィーズ・コーカは乳兄弟を意味する「コーカ」で呼ばれた[3]。
1560年、宰相位を解任されたバイラム・ハーンは自分の部下バハードゥル・ハーンが宰相となったのを見て反乱を起こした[4]。だが、アクバルはアトガ・ハーンをその討伐に差し向け、彼はこれを制圧した[5]。
さて、バイラム・ハーン失脚後、アクバルの乳母マーハム・アナガが政権を握ったが、フマーユーン以来の重臣であるアトガ・ハーンはマーハム・アナガ一派に対抗しうる存在あった[6]。そのため、アトガ・ハーンは政権から外され、皇帝に不満を訴えたこともあった[7]。
だが、1561年11月にアクバルはマーハム・アナガ子飼いのバハードゥル・ハーンに代えて、アトガ・ハーンを宰相に任命した[8][9]。アトガ・ハーンと同様にフマーユーン以来の重臣だったムヌイム・ハーンは内心彼が宰相であることに不満を持っており、マーハム・アナガの息子アドハム・ハーンにその暗殺を唆した[10]。調子に乗りやすかったアドハム・ハーンはムヌイム・ハーンに唆され、彼自身もアトガ・ハーンが宰相であることが気にくわなかったため、その暗殺を計画した[11][12]。
1562年5月16日、アドハム・ハーンは大勢の部下を連れ、アーグラ城の公謁殿でムヌイム・ハーンと会合をしていたアトガ・ハーンを短剣で刺し殺してしまった[13][14][15]。養父の死を知ったアクバルの怒りは尋常ではなかった。アドハム・ハーンはアクバルによって顔面を殴られたのちすぐさま処刑され、マーハム・アナガの政権も終わりを告げた[16]。
脚注
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.78
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ 石井『ユーラシア文化叢書<2> ムガル帝国』、pp.44-45
^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.189
^ 石井『ユーラシア文化叢書<2> ムガル帝国』、p.47
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.84
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.152
^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.189
^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.84
^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.152-153
参考文献
フランシス・ロビンソン; 月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』 創元社、2009年。
アンドレ・クロー; 杉村裕史訳 『ムガル帝国の興亡』 法政大学出版局、2001年。
石田保明 『ユーラシア文化叢書<2> ムガル帝国』 吉川弘文館、1965年。
関連項目
- ムガル帝国
- ミールザー・アズィーズ・コーカ