天湯河板挙
天湯河板挙(あめのゆかわたな)とは、『日本書紀』等に伝わる古代日本の豪族。角凝魂命(つぬこりむすひ の みこと)三世の子孫。「天湯河桁命」(あまのゆかわたな の みこと)、「天湯川田神」(あまのゆかわた の かみ)とも表記される。『古事記』に登場する「山辺大鶙」(やまのべ の おおたか)と同一人物と思われる。
目次
1 概要
2 考証
3 後裔
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
概要
『日本書紀』には以下のような物語が語られている。
垂仁天皇の皇子、誉津別皇子(ほむつわけ の みこ)は三十歳になって鬚が生えても物を言わずに、幼子のように泣いてばかりいた。ところが、鵠を見て「これは何だ」と片言を発したため、天皇は鵠を見て物を言うことができたのだと喜んだ。そこで天湯河板挙に鵠を捕まえるように命を下した。天湯河板挙は出雲国(或る人が言うには但馬国)まで追いかけて鵠を捕獲した[1]。
1ヶ月後、天湯河板挙は天皇に鵠を献上した。誉津別皇子はその鵠とたわむれているうちに、言葉を話すことができるようになった。その報賞として、天湯河板挙は姓を与えられ、「鳥取造」と名乗った。あわせて、鳥取部・鳥養部・誉津部(ほむつべ)が定められた[2]。
『古事記』にも似たような物語がある。ただし、こちらに登場する捕獲人は山辺大鶙であり、鵠を捕らえるために諸国をめぐり、罠を仕掛けるなど、かなりの苦労の跡がみられる。また、それによって皇子の唖が治ったわけではなく、天皇の夢のお告げ、曙立王(あけたつ の おおきみ)の占いがあり、大国主神のために神殿を建てたり、仮山を築いたりもしている。
考証
折口信夫は、『風土記の古代生活』という著作で、「水の女」という説を唱えている。それによると、常世からの水をあびて心身を若返らせる行為を「禊」といい、その水は温かいもので「湯」と呼ばれ、「禊」の場所は海へ通じる川の淵であり、そこを「湯川」と呼んだ。そして「湯川浴(あ)み」をするための場所を「ゆかわたな」と呼んだのではないか、と述べている。つまり、「天湯河板挙」とは、「白鳥を追いつつ、禊ぎを求めていった」という意味なのだと解釈している。
これに対し、吉田東伍は「桁」(たな)とは和泉国日根郡鳥取郷にあった古い地名であるとしている。『垂仁紀』の別伝中に、五十瓊敷皇子が茅渟(ちぬ)の菟砥(うと)の川上においでになり、「鍛名河上を喚して」とあるのを「たなかわかみをめして」と読み[3]、「鍛名」=「桁」で、「鍛名河上」は「桁川の川上(ほとり)」を意味するのではないか、と解読している。
谷川健一は、上記の折口、吉田の説をあげつつ、金属精錬と鳥の伝承との間には深い関連性がある、という。溶鉱炉から流れ出してくる金属を「湯」と呼び、金属器の精錬に適した水辺を捜し求める人物であったのではないか、また誉津別命が唖である理由を、水銀中毒で喉をやられたことを暗示しているとも述べている[4]。
後裔
『新撰姓氏録』「右京神別」によると、中央の鳥取造氏は
鳥取連、角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也
とあり、天武天皇12年(683年)に「連」の姓を授けられている[5]。
『姓氏録』には、天湯河板挙は山城国の「鳥取連」、「美努連」(みぬのむらじ)、河内国・和泉国の鳥取氏の祖先であるとも記述されている。
そのほか、鳥取氏が祖神を祀った社として、『延喜式』神名式に河内国大県郡に「式内・天湯川田神社」(現:柏原市高井田)などがあり、『和名抄』には、大県郡鳥取郷(現:柏原市大県付近)がある[6]。
脚注
^ 『日本書紀』垂仁天皇23年10月8日条
^ 『日本書紀』垂仁天皇23年11月2日条
^ 『日本書紀』垂仁天皇39年10月条。「鍛名河上」は、通説では「かぬちなは、かわかみ」と読む。
^ 『白鳥伝説』(上)、p215 - p238、(下)p223 - p229、集英社文庫
^ 『日本書紀』天武天皇12年9月23日条
^ 『日本書紀』(二)p37、岩波文庫、1994年
参考文献
- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
- 『日本書紀』(二)、岩波文庫、1994年
- 『白鳥伝説』(上)(下)、谷川健一:著、集英社文庫、1988年
関連項目
- 部民制
- 鳥養部
- 鳥取県
- 鳥取市
- 垂仁天皇
- 狭穂姫命
- 捕鳥部万