フランス






フランス共和国

République française











フランスの国旗 フランスの紋章
(国旗) (国章に準じる紋章)


国の標語:Liberté, Égalité, Fraternité
(フランス語: 自由、平等、友愛)


国歌:La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ


フランスの位置





































公用語

フランス語

首都

パリ
最大の都市
パリ

政府












大統領

エマニュエル・マクロン

首相

エドゥアール・フィリップ


面積











総計

551,500km2(51位)[1]
水面積率
0.2%


人口











総計(2016年)

62,814,233人(21位)[1]

人口密度
113人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2012年) 2兆0377億[2]ユーロ (€)


GDP (MER)





合計(2012年) 2兆5804億[2]ドル(5位)


GDP (PPP)











合計(2012年)
2兆2525億[2]ドル(8位)
1人あたり 35,519[2]ドル


建国




















西フランク王国(カロリング朝時代)

843年8月10日[1]

フランス王国(カペー朝成立以後)
987年
フランス第一共和政
1792年8月10日

フランス第五共和政(現行)

1958年10月4日



通貨

ユーロ (€) (EUR) [3][4]

時間帯

UTC +1(DST:+2)

ISO 3166-1
FR / FRA

ccTLD

.fr

国際電話番号
33




  1. ^ abcCIA World Factbook/France

  2. ^ abcdIMF>Data and Statistics>World Economic Outlook Databases>By Countrise>France


  3. ^ 1999年までの通貨はフラン (₣)。


  4. ^ フランスのユーロ硬貨も参照。




この表のデータは本土のみで、海外県・属領を含まない。




フランス共和国(フランスきょうわこく、フランス語: République française)、通称フランスは、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。




目次






  • 1 概要


  • 2 国名


  • 3 歴史


    • 3.1 ローマ帝国の支配


    • 3.2 フランク王国の再編


    • 3.3 ユグノーと絶対王政


    • 3.4 共和制と帝政


    • 3.5 世界大戦と植民地戦争




  • 4 政治


  • 5 警察・情報機関


  • 6 軍事


  • 7 国際関係


    • 7.1 イギリスとの関係


    • 7.2 日本との関係


      • 7.2.1 歴史


      • 7.2.2 日本におけるフランス






  • 8 地方行政区分


    • 8.1 主要都市




  • 9 地理


    • 9.1 地形


    • 9.2 気候




  • 10 経済


    • 10.1 農業


    • 10.2 鉱業


    • 10.3 工業


    • 10.4 貿易


    • 10.5 高失業率




  • 11 国民


    • 11.1 社会保障


    • 11.2 言語


    • 11.3 宗教


    • 11.4 セクト対策


    • 11.5 教育




  • 12 文化


    • 12.1 食文化


    • 12.2 文学


    • 12.3 哲学


    • 12.4 音楽


    • 12.5 美術


    • 12.6 映画


    • 12.7 ファッション


    • 12.8 世界遺産


    • 12.9 祝祭日




  • 13 スポーツ


    • 13.1 サッカー


    • 13.2 バスケットボール


    • 13.3 サイクルロードレース


    • 13.4 ラグビー


    • 13.5 モータースポーツ




  • 14 脚注


  • 15 参考文献


  • 16 関連項目


  • 17 外部リンク





概要


フランスはラスコー洞窟に始まる長い歴史をもつ。鉄器時代、現在のフランスに相当するガリアにはガリア人およびケルト人が居住していた。紀元前51年、ガリア人はローマ帝国により西暦486年まで制圧された。ガリアを数百年間支配し、最終的には中世のフランス王国を建国したゲルマンのフランク人の襲撃および移住にガロ・ローマ人は直面した。1337年から1453年までの百年戦争での勝利は国体を強固にしたので、絶対君主制の礎となった。ルネサンス期、フランスは世界的規模の植民地帝国の第1段階を確立した。16世紀のうち40年近くの間はユグノー戦争に明け暮れていた。





フランス人権宣言


ルイ14世はブルボン朝の最盛期を築いたが、しかし君主制は18世紀末のフランス革命で崩壊した。人間と市民の権利の宣言は、今日に至るまで国の理想を表現している。世界に先駆けて共和国を樹立したが、ナポレオン・ボナパルトが帝国を建国した。1804年にハイチを失いナポレオンは窮した。世界で初めて認めたユダヤ人の市民権を1808年5月に制限してから、外資が対仏大同盟の軍事費へ流れた。ナポレオンの降伏後は絶対君主制が復活した。1830年に立憲君主制となり、オスマン帝国からフランス領アルジェリアを奪った。一時的な第二共和政を経て、第二帝政が順につづいた。19世紀中ごろはパリ改造が行われたりレオン・フーコーが地球の自転を証明したりして、フランスは生活と科学の両面で近代化をとげた。普仏戦争で成立した第三共和政は1940年まで存続する。パリ・コミューンを鎮圧後、アドルフ・ティエールが40億フラン超の国債を発行して、フランス銀行とJ・S・モルガン・アンド・カンパニーから復興資金を調達した。19世紀および20世紀初頭、世界第2位の植民地帝国を有した[1]。オスマン帝国に対する債権国として、19世紀末からはオスマン債務管理局の運営に参加した。


第一次世界大戦において、フランスは三国協商の参加国としてドイツ帝国等の中央同盟国と戦った。第二次世界大戦では連合国に属したが、1940年にナチス・ドイツにより占領された。1944年の解放後、第四共和政が設立された。翌年フランス国立行政学院が設立され、出身者が会計検査院、財務監督官、国務院(内閣法制局兼最高行政裁判所)等で活躍するようになった。検査院出身者らが支配する官僚制は民衆からエナ帝国と呼ばれた。アルジェリア戦争を経てシャルル・ド・ゴールが第五共和政を樹立した。1950年代には原子力産業へ積極的に進出した。技術は軍事利用もされている。原子力部門における主要な会社には、パリバ系のINDATOMや、ロスチャイルド・パリ連合銀行[2]系のCOFINATOME[3]、パリ連合銀行・アルストム・シュナイダーエレクトリック・トムソン=ヒューストン(現ゼネラル・エレクトリック)他多数合弁のFramatome(現アレヴァ)などがある[4][5]。1960年代にアフリカの植民地を次々に独立させながら、北アフリカ諸国からCFAフラン圏にわたって金融・エネルギー面での利権を守った(新植民地主義)。1960年代から1970年代にかけてフランスへ外資の波が押し寄せた(詳細)。オイルショック以降、フランスの政治はコアビタシオンでねじれるようになり、ドゴールのときのように再びソ連と西ドイツを相手として頻繁に交渉した。


フランソワ・ミッテラン大統領が指導するフランスは、1980-81年に大企業群を国有化し、補償金を捻出するときに国家債務を増加させた。1982-83年のフランス版金融ビッグバンでは、国債その他特定種類の証券市場に特化した証券化が行われた。国家債務のGDPに対する割合は、1980年20%であったものが1990年35%になった。[6]


フランスは欧州連合の歴史的創立国の一つであり[7]、特に隣国ドイツとの経済的・社会的統合を推進している。金融政策は欧州中央銀行で決定する。ジャック・シラク大統領のとき、パリクラブではユーロ債のリスケジュールがさかんに行われた。ナポレオンの時代から使用されていたフランス・フランは、1999年のヨーロッパ通貨統合にフランスが参加したので、2002年始め完全にユーロへ切り替わった。イラク戦争でフランスは、ドイツ・ロシアと戦争に反対する立場をとった(2月の共同宣言)。1990年代から債務を累積させていた年金制度が2003年に改革された。2005年、国民投票で欧州憲法が批准を否決された。年金制度改革は2010年夏にも実施された。公債の2/3を保有する機関投資家の、国家財政に対する信頼を回復する意図が指摘されている[8]



国名





エッフェル塔はパリ、およびフランスのシンボルで、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。


正式名称はフランス語で、République françaiseレピュブリク・フランセーズ)。通称、Franceフラーンス)。略称、FR


日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、)と略されることが多い。英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench


国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまでは遡って存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている France はフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[9] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名付けているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王は REX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世とルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク、中フランク、東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[10]。ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる Frankreichフランクライヒを未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は Frankenreichフランケンライヒと呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている。



歴史


フランスの歴史は現代世界史の幹である。ブルボン朝最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国に次ぐ広大な海外植民地帝国を有した。1919年から1939年、フランスの面積は最大となり(12,347,000km2)、世界の陸地の8.6%を占めた。



ローマ帝国の支配


現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった。


紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバルが南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。




『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス』


その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍カエサルは紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールは幾つかの属州に分割された。そしてラティフンディウムがつくられた。


ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。


360年にゴール北部の都市ルテティアはパリと改名された。


5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。




フランク王国の再編




聖レミギウスから洗礼を受けるクローヴィス


476年に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝の後はピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り[11]、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。


シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュの下でヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂した(西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国)。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリア・ドイツの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。


909年クリュニー修道院が創建された。後にモーゲージ関係史料を多数残した。933年、アルル王国が成立した。西フランク王国はロテール3世のときに群雄割拠し、987年パリを神聖ローマ帝国に攻められるほど不安定であった。
987年、西フランク王国が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーがフランス王に選出されてフランス王国が成立した。カペー家に始まるカペー朝、そしてヴァロワ朝とブルボン朝は、戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。カペー朝の場合、ロベール2世がブルゴーニュを攻め、アンリ1世が二度も国際結婚した。ルイ7世は一回多かったが、最初の妻アリエノール・ダキテーヌはヨーロッパの祖母と呼ばれている。フィリップ2世は三度目の結婚でバイエルン貴族と姻戚関係となった。



1209年にアルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現在の南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[12]。南仏オック語圏は、後にスペイン交易で栄えユグノーを台頭させる。1223年に即位したルイ8世は、西フランク王家だったカロリング家の血を引くとされ、第一次バロン戦争へ介入してマグナ・カルタ制定のきっかけをつくった。ルイ9世は第2次バロン戦争で諸侯を調停している。フィリップ4世は1284年からナバラ王国で王となり、翌年フランスでも即位して新たな財源を次々と獲得した(フランドル支配・アナーニ事件・アヴィニョン捕囚・テンプル騎士団解散・三部会)。黒死病の大流行が起こる直前の1337年からフランスはイングランドとの百年戦争(1337年 - 1453年)を戦っている[13]


ジャンヌ・ダルクの活躍する一方でヴァロワ=ブルゴーニュ家が断絶した。戦争を通じて強化された王権は、1492年11月3日に賠償金を払ってイングランド勢力を大陸から退かせた(Peace of Étaples)。同年10月28日クリストファー・コロンブスがキューバに着いていた。そこでフランスは翌1493年1月19日アラゴン連合王国とバルセロナ条約(Treaty of Barcelona or Treaty of Narbonne)を結び、ルシヨンとサルダーニャをアラゴンに返して、フランスのイタリア侵攻に関し中立を約束させた。同年5月、フランス王シャルル8世が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世を相手にブルゴーニュ継承戦争の講和としてサンリス条約(Treaty of Senlis)を結んだ。吸収したブルゴーニュ公国を安定させ、ネーデルラント17州のうちアルトワ伯国とフランドル伯国に飛び地や諸権利を維持したのである。1492-93年の動きは、つまるところアメリカを開拓する準備であった。ネーデルラントからアキテーヌにかけて港が使えるようにしたフランスであったが、1494年トルデシリャス条約へ国益を反映させることができなかった。



ユグノーと絶対王政


1494年、シャルル8世がイタリア戦争(1494年 - 1559年)で苦戦する中、オスマン帝国からカピチュレーションをとりつけた。1534年、ジャック・カルティエがガスペ半島に十字架を建て、ヌーベルフランスを宣言した。イタリア戦争は1559年のカトー・カンブレジ条約に結実した。このときスペインのフェリペ2世がフランス王アンリ2世の娘エリザベートと結婚した。フランス内政がスペインの干渉を受けてカトリック政策を推進したので、1562年宗教・金融摩擦からユグノー戦争が30年以上も続いた。1571年スペインはレパントの海戦に勝利し、カピチュレーションの仮想敵国となった。スペインは1581年からポルトガルと同君連合となって英葡永久同盟に背いた。ユグノーと結んだイギリスは、1588年アルマダの海戦で内戦の原因スペインを破った。1596年、フランスはイギリス・オランダと同盟した。1598年ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った。1618年からの三十年戦争でユグノーが優位となった。オスマン帝国がユグノーに厚いベトレン・ガーボルを支援した。1629年リシュリューがユグノーと和解したので、それまで続いていた英仏戦争について1632年講和が実現した。1631年、ベールヴァルデ条約を結んでスウェーデンを戦線に向ける一方、フランスはサヴォワのスペイン軍を攻撃していた。1635年、ようやくフランス本体が三十年戦争にユグノー側で参戦した。


ユグノーは1556年に南極フランス(英語版)(現ブラジルのグアナバラ湾周辺)を、1581年にオランダを、1608年にケベック(Province de Québec)を、1612年に赤道フランス(英語版)(現ブラジルのマラニョン州にサン・ルイス周辺)をそれぞれ建設していた。南極フランスも赤道フランスもポルトガルに併合された。また、ユグノーは他国の市民として各地に移り住んだ。三十年戦争でアムステルダム銀行に悪貨が押し寄せ、オランダユグノーは銀行貨幣保持者として損害を受けていた。フランス国内では1569-1650年のシュリー・ルイ13世・マザランの治世で48人のユグノーが要職を占め、二人の財務総監バルテルミ・エルヴァルト(英語版、フランス語版)(Barthélemy Hervart, Barthélemy Herwarth)とジャン=バティスト・コルベールの活躍した1650-80年も31人のユグノーが登用されていた[14]




「太陽王」ルイ14世


1643年に即位したルイ14世はスペインの制海権と金融力を事実上継承した。1665年に現存するガラスメーカーのサンゴバンが設立された。1666年から数年間、イギリスの外交姿勢がゆれた。ネーデルラント継承戦争とドーヴァーの密約の陰で、ロンドン大火の翌年にオランダがロンドンに迫り、1668年イギリス・オランダ・スウェーデンが対仏同盟を組んだ。このときスウェーデンは国立銀行を用意していた。1673年にフランス東インド会社がポンディシェリを取得した。1685年には黒人法(フランス語版、英語版)を制定、アシエント制度を解体した。さらにナントの勅令を廃止した。国内外のユグノーが怒り狂って行動した。1688年名誉革命により英蘭の同君連合が1702年まで続いた。そしてこの間にイングランド銀行ができた。スペイン・フランス・オスマン枢軸を叩き潰すべくつくられた、このヨーロッパシステムこそ列強のはじまりである。1701年からのスペイン継承戦争で、イギリスがジブラルタルという地中海のチョークポイントを占領した。まだスエズ運河は存在しなかった。なお、この戦争でサヴォイア家がシチリア王国の王位を得た。これがきっかけで近代にフランスはイタリアの債権国となる。


1715年に即位したルイ15世のとき、王朝は目に見えて衰退した。1716年国立銀行を設立したが、数年後ミシシッピ計画もろとも破綻した。1733年、セント・クロイ島をデンマークに売却した。1746年、イギリス東インド会社からポンディシェリを守ろうとカーナティック戦争で敗北した。それでもフランスはアメリカ・アフリカ・アジアに広大な海外領土を獲得していた。1748年、シャルル・ド・モンテスキューが法の精神を発表した。1756年からの七年戦争がフランスの孤立を際立たせた。1762年という局面で、プロイセンとロシアの間にサンクトペテルブルク条約が結ばれた。両国はサンクトペテルブルクが十分開発されてから、オスマン帝国の版図を精力的に削っていた。そしてこの年ジャン=ジャック・ルソーが社会契約論を発表した。1763年のパリ条約で北米植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争が終結した。ヌーベルフランスはイギリスによる植民地時代に移った。もっとも当地の一般的な交換手段はスペインドルであった。1769年、フランス東インド会社からフランス領インド(フランス語版、英語版)が成立した。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビやコーヒーのプランテーションが築かれ、莫大な歳入がボルドーを通じてフランスにもたらされた。


ルイ16世は先代らのツケを払う立場となった。1781年、ジャック・ネッケルが財政支出状態を暴露して財務総監を辞職した。最近ジェイコブ・ソールの著した『帳簿の世界史』という本で偉業あつかいされている。1787年、パリ外国宣教会のピニョー・ド・ベーヌは、阮福暎に働きかけて、フランスの支援のもとに西山朝と戦わせた(フランスのグエン・アインへの支援(ベトナム語版、英語版))。



共和制と帝政




アルプスを越えるナポレオンジャック=ルイ・ダヴィッド画


1789年にフランス革命が起きて王政は倒れた。1791年にハイチ革命が勃発。1793年にルイ16世とマリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[15]。1795年から総裁政府がヨーロッパシステムへの迎合政策をとった。


1799年にブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握って第1統領となった。ナポレオンは前年からエジプト・シリア戦役をたたかっていたが、そこでオスマン帝国はヨーロッパシステムに組みこまれかけた。1800年フランス銀行を創立した。ナポレオンは償却金庫の準備金で政府紙幣を発行し、この新しい通貨で国家債務を返済することにした。やがて皇帝に即位して第一帝政(1804年-1814年)を開いた。ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパシステムを圧倒し(ライン同盟結成)、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即いた。この戦争で数百万人が犠牲となった[16]
1803年にフランス領ルイジアナをアメリカに売却。1804年に革命が終わり、ハイチ帝国が一応の独立を果した。1808年5月、ナポレオンはユダヤ人の市民権を時限制限した。この年、対外貿易額が極度に減少した。1809年に教皇領を、翌年にオランダを併合した。1811年オーストリアが破産し、マリア・ルイーザとの政略結婚が無力となった。フランスは恐慌に陥った。[要出典]欧州の資金が第六次・第七次対仏大同盟につぎこまれた。1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた。


フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約された。1817年にロチルドらが公債を引き受けた。翌年にかけてフランス財政は間接税の徴収額がうなぎのぼりとなり、つまりオランダ化していった。その上で1818年アーヘン会議が催され、地中海の勢力均衡と金融保障を維持する欧州列強としてフランスが認められた。以来、各国の憲法は地中海覇権を制限しているが、宗教・銀行による国際金融を権力として制限できずに現代へ至る。1822年、アンセルム・ペイアンがテンサイ由来の砂糖を活性炭で白くする工法を発明。オーストリア帝国で活用された。1830年、7月革命で立憲君主制の7月王政が立てられた。1830年にフランス領北アフリカ(アルジェリア・チュニジア・モロッコ)が成立した。1831年、ベルギー王が擁立され、ランベール銀行が創立された。このベルギーを1839年にアーヘン会議の五列強が永世中立保障した。1848年、2月革命で第二共和政となった。1851年12月2日のクーデター(フランス語版、英語版)が起きて、1852年12月2日にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、ナポレオン・ボナパルトの甥)が第二帝政を開いた。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法[17]で内政を固めた。軍事外交は大西洋を避けて行われた。1858年プロンビエールの密約を結び、やがて経済的にもイタリアを支配した。そして中国・インドシナ半島・メキシコ・日本などへ積極的に出兵した(アロー戦争・コーチシナ戦争(英語版)・メキシコ出兵・下関戦争)。その結果オセアニアをふくめた東アジア貿易での銀貨による支払いが倍増したので、1865年にラテン通貨同盟を結成して銀を投機から保護した。1869年、スエズ運河を開通させた。1870年、普仏戦争に敗北しルイ・ナポレオンは退位した。パリ・コミューンをパトリス・ド・マクマオンがドイツ帝国軍の支援で鎮圧した。そしてアドルフ・ティエールが第三共和政を打ち立て、フランス銀行とJ・S・モルガン・アンド・カンパニーの融資でパリを復興させた。


1875年、フランス東インド会社の残務整理がおわってインドシナ銀行が設立された。1881年にオスマン債務管理局が設置され、ヨーロッパシステムの執念が実を結んだ。フランスはトンキン戦争(英語版)(1882年)と清仏戦争(1884年 - 1885年)に勝利した。ここにフランス領インドシナ(1887年 - 1954年)が成立した。国内ではブーランジェ将軍事件(1886年 - 1889年)が起きた。1890年、フランス銀行とロシア政府がベアリングス銀行の救済に参加した[18]。ベアリング融資先のアルゼンチンとも関係が生まれた。1893年、シャムと仏泰戦争(英語版)。普仏戦争後のアルザス=ロレーヌの喪失と、50億フランという高額な賠償金を発端とする反独運動からドレフュス事件(1894年)が勃発。アフリカ分割の時代には、1895年にフランス領西アフリカ(モーリタニア・セネガル・マリ共和国・ギニア・コートジボワール・ニジェール・ブルキナファソ・ベナン)が成立した。1894年に露仏同盟を締結した。ソシエテ・ジェネラルなどがシベリア鉄道と露清銀行へ出資した。フランスはグレートゲームの裏方であった。ファショダ事件(1898年)は融和に向かい、日露戦争(1904年 - 1905年)は露清銀行の支配率を高めるのに必要な規模に収まった。三国協商は参加国の民衆がもつナショナリズムを封じた。1905年、フランスがモロッコ進出しドイツが反発した(第一次モロッコ事件)。1910年にフランス領赤道アフリカ(ガボン・コンゴ共和国・中央アフリカ共和国・チャド)が成立した。1911年、第二次モロッコ事件でフランスはイギリスとベルギーの利益を代表しドイツと対立した。1913年、アルザス・ロレーヌ地方(エルザス州・ロートリンゲン州)でツァーベルン事件が起こった。



世界大戦と植民地戦争





ジョルジュ・クレマンソー





フィリップ・ペタン





シャルル・ド・ゴール


フランスは第一次世界大戦と第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており[19]、この時は領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。


1916年5月16日にイギリス・フランス・ロシア間でオスマン帝国領の分割を約した秘密協定「サイクス・ピコ協定」を締結した。1917年からオスマン帝国にOETAを設置して3年間占領した。1917年10月、ロシア革命中のボリシェヴィキがサイクス・ピコ協定を暴露した。1918年11月8日、ウッドロウ・ウィルソン米大統領の支援でアルザス=ロレーヌ共和国(fr)が出来たが、11日後にフランス軍が占領・解体・併合した。1919年1月にパリ講和会議でファイサル1世がアラブ地域の独立をフランスに求めたが拒否した。1920年3月8日にファイサル1世がシリア・アラブ王国(英語版)として独立すると、サン・レモ会議(英語版)(同年4月19日 - 4月26日)でフランスとイギリスの委任統治範囲を決定した。7月24日にフランス・シリア戦争(英語版)が始まり、フランス委任統治領シリアとして占領した。8月10日、オスマン帝国とセーヴル条約を締結した。5-10月はキリキアをめぐりソ連の支援を受けるアタテュルク率いるアンカラ政府(英語版)トルコ・フランス戦争(英語版)をたたかって負けた。1923年1月、ベルギーとルール地方を保障占領した。翌年のドーズ案から国際決済銀行の創設が構想され、それがヤング案で1930年に実現すると、フランスは1981年までずっと総支配人を輩出し続けた。


アルザス=ロレーヌ圏やコーカサスは国際金融家の投資対象であった。もはや利権はナショナリズムで分割できなくなっていた。1935年ストレーザ戦線の早々たる瓦解が時代を告げていた。1936年から人民戦線政府によって様々な改革が試行されたが、ヨーロッパシステムはおろか、200家族を封じることすらできなかった。


第二次世界大戦ではドイツの電撃戦に敗れた。第三共和政は崩壊し、フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。ヴィシー政権は、ベルギー国立銀行に預託されていたルクセンブルクの資産を差し押さえ、ナチスに引き渡した。フランス本国はドイツによって北部、後に全土が占領された。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランスが連合国についた。1944年にフランス共和国臨時政府が帰還し、全土を奪還した。


戦後、第三のそれと変わらないフランス第四共和政が成立した。1946年、フランス委任統治領シリアからシリア共和国(英語版)が独立した。フランスはCFAフランを利権とし、また列強としてアフリカの鉱業へ共同参加した。1951年、欧州石炭鉄鋼共同体を西ドイツと結成した。東南アジアはインドネシア独立戦争の終結から欧州列強の衰退が見え出した。海底ケーブルの中継点を華僑・地元民が握っていた。フランスはインドシナ支配権を回復するため第一次インドシナ戦争に臨み、1954年にディエンビエンフーの戦い(3月 - 5月)でベトミンに大敗を喫した。11月1日にフランス領インド(英語版)を返還したが(ポンディシェリ連邦直轄領)、その同日にアルジェリア戦争へ突入した。アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[20]を巡って国論が割れ、内戦になりかけた。1956年にはモロッコとチュニジアが独立を達成した。この脱植民地化時代、フランス領インドシナやマグリブのみならず、ブラックアフリカの植民地においても独立運動が進んだ。モロッコで起きたイフニ戦争(英語版)(1957年 - 1958年6月30日)では、戦略上スペインのフランコ体制を支持した。


1958年6月1日、ド・ゴールが第四共和制の首相となった。1959年1月8日に強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した。第五共和政初代大統領となったド・ゴールは国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日のギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。第二次世界大戦後の冷戦構造の中でフランスは自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構の原加盟国でもある。しかしド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線を取った。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠で核実験を強行した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した。このエヴィアン協定で軍事基地の使用を認めさせ、またサハラ石油利権の半分を確保し、入植者の財産も保証させた。1966年、フランスは北大西洋条約機構を正式脱退した。


1964年、フランスは中華人民共和国を承認した。ベトナム戦争の間に英仏が中国・オーストラリア経由で東南アジアの金融利権を取り戻した。ブルネイ財政の投資信託に独立前から携わり、オフショア市場を次々と開設し、アジア通貨危機をグローバル化させた。そしてクリアストリーム事件が起きた。ルクセンブルクが注目され、多くの人がモルガンとロチルドを知るようになった。



政治




エマニュエル・マクロン大統領




エドゥアール・フィリップ首相




1958年10月にフランスの憲法が制定されて、半大統領制の共和制となった。


直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)には、シャルル・ド・ゴールのときから首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられている。これは、立法府である議会より行政権の方が強い体制である。



また、大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、共に行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが両者が対立し政権が不安定になることもある。



議会は二院制を採用し、上院に当たる元老院と、下院にあたるフランス国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制と二回投票制が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。



主要政党としては、共和国前進(中道)、共和党(中道右派)、国民連合(極右)、社会党(中道左派)、労働者の闘争(極左)がある。



歴史ある中央集権と官僚主義はフランスの政治体制を代表してきた。スウェーデンには遠く及ばないが、労働人口に対する公務員の比率は21.6%に達する[21]。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造は、しばしば批判的な意味をこめて『官僚天国』『役人王国』などと形容される[22]



警察・情報機関





  • フランス国家警察

    • パリ警視庁

    • フランス国家警察介入部隊

    • フランス国家警察特別介入部隊




  • フランス国家憲兵隊

    • フランス共和国保安機動隊

    • フランス共和国親衛隊

    • フランス国家憲兵隊治安介入部隊






  • 対外治安総局 (DGSE)(Direction Générale de la Sécurité Extérieure) -SDECE―防諜・外国資料局より改称。


  • 軍事偵察局 (DRM)(Direction du Renseignement Militaire) - 軍事偵察局 (国防省に属する機関)


  • 国内治安総局(DGSI) (Direction centrale du renseignement intérieur;)(内務省に属する機関)



軍事





フランス海軍初の原子力水上艦シャルル・ド・ゴール





フランス空軍の戦闘機ラファール



フランスの国防政策は1959年にシャルル・ド・ゴール政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、将官の任免、総動員令や戒厳令の宣布などの意思決定機関として機能する。フランス革命からの徴兵制を廃止して志願制を採用した。2011年の軍事支出は625億ドルと標準的な軍事費を維持している。


フランス軍は陸軍、空軍、海軍および憲兵からなり、2002年の総兵力は44万人のうち、陸軍17万人、空軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。国外駐在兵力は約3万人で、うち太平洋地区の海外県(植民地)に約2万人、アフリカに6,500人、国際連合など国際組織の指揮下に9千人がいる。また核兵器を保有しており、海軍の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦により運用される。現在もフランス外人部隊8個連隊を保有する。南仏オーバニュに司令部を置き、南仏各地も駐屯、コルシカやポリネシアにも一部が駐屯する。2002年12月から西アフリカのコートジボワールに外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。


2013年に開始されたマリ共和国への軍事介入において、進展の遅れから軍の兵站が不十分である指摘する報道が行われた。国防予算の50%が軍人への給与や退職金などに費やされ、残りの予算も空軍機や空母など主力兵器の運用・導入が優先される予算配分に原因があると見られている[23]。徴兵制廃止によって兵員の不足も発生しており、常備軍23万名の中で即時派兵が可能な戦力は3万名に留まっている。


フランス陸軍は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦旅団、2個補給旅団からなる。主要装備は戦車834輌、装甲車4,950輌、各種火砲802門、ヘリコプター498機である。


フランス海軍は戦略作戦司令部と海上、対潜、掃海、潜水艦などの専門作戦司令部からなる。主要装備は弾道ミサイル搭載原子力潜水艦4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、原子力空母1隻、ヘリ空母1隻、ミサイル駆逐艦3隻、駆逐艦9隻、フリゲート20隻などである。


フランス空軍は6個攻撃戦闘機中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個電子戦中隊からなり、主要装備は作戦機433機、早期警戒管制機4機、偵察機4機、空中給油機45機、輸送機131機などである。


フランス国家憲兵隊は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置した上で内務省に属し、警察業務を担当する。



国際関係



フランスは国際連合の原加盟国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国の一国である。多くの国際機関の加盟国でもあり、G7、北大西洋条約機構 (NATO)、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO)、フランコフォニー国際機関がこれに該当する。また、欧州連合原加盟国かつ指導国でもある。


BNPパリバに象徴されるフランスの金融力は欧州情勢を左右してきた。しかし同行は2014年6月、アメリカ合衆国のキューバ・イラン・スーダンに対する経済制裁に背き、取引記録を偽装し共謀事実を隠蔽した罪を認めた。フランスは2003年のイラク戦争に終始反対したが、第二次世界大戦中も英米と一歩離れた独自外交を展開している。第五共和制成立後も冷戦構造の中でフランスの影響力を保つため、ソビエト連邦と提携したり、NATOの軍事機構から脱退したり、1973年からフランス・アフリカ首脳会議を主催したりしている。また、フランスは建国以来のベルギーと密接な関係がある。


大戦直後西ドイツとは道徳再武装という交渉の機会を得て、和解し共に欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合の主要国として存在感を高めている。ドイツとは1999年1月のユーロ導入を含む欧州統合に中心的役割を果たして来た。しかし、2005年の欧州憲法批准は国民投票で拒否された。2008年2月にこれを継承するリスボン条約が議会の承認を得ている。


フランスは旧植民地との間にフランス共同体を結成している。アフリカの旧植民地に対しては、暴動や内戦の際に親仏政権を維持するため軍事介入することもある。現在もセネガルやジブチにはフランス軍の軍事基地がある。実際に、1994年のルワンダ紛争や、2002年のコートジボワール内戦にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及ぶ[24]。2012年からマリ北部紛争に介入している。こうしたフランスの姿勢を新植民地主義であると批判する声もある。またケベック州の仲介により、フランス語地域のある国とはフランコフォニー国際機関を結成した。


欧州連合加盟各国は北朝鮮と国交がある。しかしフランスは2016年8月現在も日本やアメリカと同様に北朝鮮と国交がない。


2015年1月、パリでシャルリーエブド本社やユダヤ教徒向け食料品店が襲撃され、11月には大規模な同時多発テロで仏全土に非常事態宣言がなされるなど、イスラム過激派との間で緊張が高まっている[25]




フランスが外交使節を派遣している諸国の一覧図




イギリスとの関係



フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。イングランドは、ノルマン・コンクエストを通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。




クレシーの戦い(百年戦争)


こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルクが活躍したことで有名な百年戦争は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人とイギリス人の間に、後の国民国家の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。またフランス第一帝政時代の対仏大同盟は、イギリスが盟主的存在であった。


英語での生きている牛 (cow) もしくは生きている豚 (pig) と死んだあとの食肉としての牛 (beef) と豚 (pork) の呼び方が異なる理由は、ノルマン・コンクエストによってイギリスを支配したノルマン系のイングランド貴族の母語がフランス語であり、被支配者であるアングロ・サクソン系の農民の育てた家畜は生きている間はアングロ・サクソン系の語彙で呼ばれ、肉となって調理され、貴族の食卓に上るとフランス語系の語彙で呼ばれるようになったのが由来である。すなわち、ビーフとポークは本来フランス語である(ただし英語とフランス語のビーフ・ポークの綴りは異なる)。


政治的には1904年の英仏協商締結以来、基本的には友好関係にある。第一次世界大戦をともに戦い、第二次世界大戦では敗北寸前となったフランスに対し、イギリスから連合国家形成の提案がなされたこともある。戦後はスエズ危機のように両国が協調した行動を取ることもあるが、イラク戦争に対する対応のように両国の対応が分かれることもある。



日本との関係




歴史


日本とフランスの公式な関係が始まったのは19世紀後半の幕末期以降である。1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵
によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。


明治維新後には西園寺公望をはじめとする政治家、大山巌らの軍人、黒田清輝らといった芸術家らが続々とフランスに留学している。1872年(明治5年)から翌年にかけては、岩倉使節団がフランスを訪問しており、当時のパリの様子が「米欧回覧実記」に詳しく記されている(一部スケッチ入り)[26]。日本は民法・刑法改正にギュスターヴ・エミール・ボアソナード、陸軍にフランス陸軍の教官を招聘し、強い影響を受けた。


義和団の乱では共同歩調を取ったが、日清戦争後にフランスは、日本に遼東半島を返還するよう働きかける三国干渉を行っている。第一次世界大戦においては連合国として戦い、1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成している。その後の第二次世界大戦においては、ヴィシー政権成立前後の時期に、日本はフランス領インドシナへの進駐を要求し、北部インドシナは日本の占領下に置かれた(仏印進駐)。ヴィシー政権は植民地に対する支配力を失い、1940年のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介により東京条約を締結しタイとの戦争を終結させた。1941年には南部仏印への進駐も行われたが、これは日米交渉において決定的な破局点となった。真珠湾攻撃後、自由フランスは連合国の一員として日本に宣戦したが、日本軍とは交戦していない。1945年、インドシナで明号作戦によって、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。日本側はフランスとは戦争関係にないという建前をとり続けたが、降伏文書には臨時政府のフランス代表も署名している。


1951年、日本国との平和条約締結により日仏関係は正常化した。以降の関係はおおむね良好である。



日本におけるフランス



日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国として有名であり、毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理などを学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、在仏日本人は3万5千人に及ぶ[27]。これはヨーロッパ圏ではイギリス、ドイツに次ぐ多さである。
経済面では、1992年から2000年にかけフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで貿易額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している[28][29]。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%(各国中15位)であり、一方でフランスからの輸入も1.8%(同13位)と貿易における重要度、依存度は他の先進国や中進国と比較してさほど高くない[30]。これをフランスから見た場合、対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%であり、これはドイツ(14.5%)、スペイン(10.2%)、イタリア(9.2%)、イギリス(8.8%)、ベルギー(7.6%)といったEU諸国、アメリカ合衆国(7.2%)、中華人民共和国(1.7%)に次ぐものとなっている[31]


しかし、直接投資においては、1999年のルノーによる日産自動車の買収に伴い、日産の最高経営責任者となったカルロス・ゴーンは一般の日本人にも知名度があり、これにプジョーを加えフランス車も、ドイツ車などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側もトヨタ自動車がほぼ同時期に北部ノール県ヴァランシエンヌに工場を建設しているほか、NTNなど自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。


古くは江戸幕府の幕府陸軍、および明治以降の日本陸海軍もフランス軍の影響を相当受けていた(第一次・第二次・第三次フランス軍事顧問団)。陸軍はその健軍にあたってフランス陸軍を師とし、鎮台制などのフランスの兵式を採用し強い影響を受けている。なお、旧陸軍および現在の陸上自衛隊の制式行進曲である『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)』は、明治初期に御雇外国人としてフランスから派遣されたシャルル・ルルー陸軍軍楽大尉相当官によって作曲されたものである。1880年代中後半には普仏戦争の影響もあり、1888年(明治21年)に全体的にプロイセン(ドイツ)式に転換したもののフランス色は完全に排除されたわけではなく(明治38年・45年制式の軍服にフランス式の肩章を採用)、また第一次大戦から1930年代までは、銃火器・火砲・戦車および航空機(後述)等の開発においてはフランスの影響が再度強くなっている。海軍は健軍当初から兵式はイギリス式を採用していたが、当時のフランスはイギリスに次ぐ海軍大国でもありその存在は無視出来るものではなく、1880年代の第三次フランス軍事顧問団において海軍技術者ルイ=エミール・ベルタンなどを御雇外国人として招き主力艦を含む多数の軍艦を設計させている。そのため19世紀が終わる頃まではフランス海軍の影響も大きかった。


航空分野においては、1910年(明治43年)に徳川好敏・日野熊蔵両陸軍大尉がフランスの飛行機の操縦技術を学び、フランス製のアンリ・ファルマン複葉機を持ち帰り、同年12月19日に代々木練兵場で初飛行した。なお徳川好敏は、日本人として日本の空を飛んだ初めてのパイロットである。第一次大戦時の1914年(大正3年)に編成された日本発の実戦飛行部隊たる陸軍の臨時航空隊は、フランス製の軍用機と技術をもって青島の戦いに参戦しドイツ軍と交戦した。大戦末期の1918年(大正8年)1月、陸軍はフランス側より航空部隊の無償技術指導の提案を受け、フォール陸軍大佐( Jacques-Paul Faure)を団長にした61名のフランス航空教育団 ( Mission militaire française au Japon (1918-1919))を迎え、所沢陸軍飛行場(現・所沢航空記念公園)など各地で教育を受けている(少数ではあるが海軍軍人も聴講員として参加)。このように、のちの陸軍航空部隊、しいては日本の航空・航空戦力の原点はフランスであった。



地方行政区分



フランスは26の地域圏に分かれる。フランス本土(メトロポリタン・フランス)の位置するヨーロッパの領土は22の地域圏(レジオン région)に区分され、その下に100の(デパルトマン département)が存在する(各レジオンが2~8のデパルトマンに区分されている)。地域圏はメトロポリタン・フランスに21、コルシカに1つに分かれる。さらに海外のアメリカ大陸やインド洋などには、4つの海外県と、複数の海外領土がある。各県はさらにコミューンに分かれる。2009年3月29日、アフリカ東部沖のコモロ諸島にあるマヨット(人口約20万人)を特別自治体から海外県への地位変更の是非を問う選挙が行われ、賛成95.2%で海外県となることが決まった。フランスの県としては101番目、海外県としては5番目である。


フランス・メトロポリテーヌの地域圏再編が行われ、2016年1月1日より地域圏の数は26から18となった。



主要都市



表は市内の人口順ではなく、都市圏の人口順に並べている。フランスの人口は、パリへの一極集中が目立つ。フランスの交通において結節点となるパリは主要な文化および商業の中心地である。同市に次ぐ都市は規模が小さい。


















































































都市

行政区分
人口
都市圏人口

1

パリ

イル=ド=フランス
2,240,621
12,341,418

2

リヨン

メトロポール・ド・リヨン
496,343
2,214,068

3

マルセイユ

プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール
852,516
1,727,070

4

トゥールーズ

オクシタニー地域圏
453,317
1,270,760

5

リール

オー=ド=フランス地域圏
228,652
1,166,452

6

ボルドー

ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏
241,287
1,158,431

7

ニース

プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール
343,629
1,004,914

8

ナント

ペイ・ド・ラ・ロワール
291,604
897,713

9

ストラスブール

グラン・テスト地域圏
274,394
768,868

10

レンヌ

ブルターニュ地域圏
209,860
690,467
2012年国勢調査



地理





フランスの地形図



地形


フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島、南米のフランス領ギアナ、カリブ海のマルティニーク、グアドループ、インド洋のレユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアやフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、フランス本土だけで日本の1.5倍あり[32]、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone(レグザゴーヌ)"が「フランス本土」を意味する。その6辺の国境のうち、1辺は平野と川(ライン川)、2辺は山脈(ピレネーとアルプス)、3辺は海(地中海、大西洋、北海)である[33]


フランスの地形のおもな特色は、東から南にかけて山地や山脈という自然の国境がある他は、ところどころに高原や丘陵がみられるものの、国土の大半は概して緩やかな丘陵地や平野で可住地に恵まれていることにある(国土の60%が海抜250m以下の平地であり、2000mを超える山岳地帯は東部と南西部の国境付近のみ[34])。


北部、西部に広がる、フランスでも最も広い領域を占める比較的平らな地域は、東ヨーロッパから続くヨーロッパ中央平原の西端部にあたる。緩やかな起伏の平野で、高所でも標高200m程度の土地が広がっており、温暖な気候と併せて西欧最大の農業国フランスの基礎となっている。東部ドイツ国境にはヴォージュ山脈、スイス国境にはジュラ山脈が延びる。ヴォージュ山脈はライン川の西岸に沿って流れ、ライン川がフランスとドイツとの国境となっている。南東部は中央高地が広がり、北から南へ流れ下るローヌ川を越えると、アルプス山脈につながっていく。南部イタリアとの国境を成すアルプスの山々は、多くが標高4000m以上で、その最高峰がモンブランである。アルプス越えには古代ローマの時代からいくつかの道があるが、なかでも有名なのが、サンベルナール峠である。南西部のスペイン国境にはピレネー山脈が延びる。峠がほとんど無いピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。サントラル高地の最高峰はドール山 (1,866m)。ピレネー山脈の最高峰アネト山 (3,404m) はスペイン側にそびえる。フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン (4,810m)。


主な河川は北から反時計回りに、セーヌ川 (776km)、ロワール川 (1012km)、ガロンヌ川 (647km)、ローヌ川 (812km)。



気候


フランスの気候は大陸性、海洋性、地中海性の気候区に分割される。西岸海洋性気候は大西洋側の国土の西部で見られる。気温の年較差、日較差とも小さい。気候は冷涼であるが、寒くなることはない。国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候は東ヨーロッパ、つまりポーランドやルーマニアが西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうち最も大きい。降水量は年間を通じて少ない。このように三種類の気候が共存している例はヨーロッパの中でフランスだけである[35]



経済





パリはアメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界3位と評価された[36]


フランスは名目GDPで世界第6位および購買力平価で世界第8位の先進国である[37]。家計資産の総計の観点から、フランスはヨーロッパで最高かつ世界で第4位の経済大国である[38]同国は世界第2位の排他的経済水域 (EEZ) をも有し、その規模は11,035,000 km2に及ぶ[39]。フランス国民は高い生活水準を享受し、同国は教育、医療、平均寿命、人権、人間開発指数の国際ランキングにおいて上位に位置する[40][41]。フランスは世界第4位の世界文化遺産数を有し、世界最多の年間約8,300万人の外国からの観光客を迎え入れている[42]


2014年のフランスのGDPは2兆8468億ドルであり、アメリカ、中国、日本、ドイツ、イギリスに次ぐ世界第6位である[43]。また、同年の1人当たりのGDPは42,999ドルであり世界水準のおよそ4倍、日本と比較しても僅かに多くヨーロッパ屈指の経済大国であることが分かる。観光客入国数では世界一、農産物輸出額では世界第2位を占める[44]。農業は生産額世界第6位と依然としてフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。高負担国家であり、GDPに占める税収比は45.5%とOECD諸国においてデンマークに次いで2位である(2014年[45])。2015年に海底ケーブル大手のアルカテル・ルーセントが買収された。


第二次世界大戦後は鉄道・航空・銀行・炭田が国有化されたが、ロスチャイルドなど200家族が取締役として居残った。マーシャル・プランを原資としたモネ・プラン、次いでイルシュ・プランで経済復興が行われた。自動車・電子・航空機産業についても国が主要株主となり、政府は石油と天然ガスにも投資した。ラザードが色々な合併を手がけた。1981年のフランソワ・ミッテラン大統領の社会党政権は産業国有化をさらに推進したが頓挫した。1986年に保守派シラクが首相になって国家の役割が縮小された(第1次コアビタシオン)。しかしアメリカ合衆国やイギリスの背後から、金融・保険・電力・運輸・国防産業等それぞれのグローバル市場でフランスは隠然たる影響力を保持した。フランスの資本主義はエナ帝国が主導している。つまり、国債や租税等の財源が国家出資庁(フランス語版、英語版)を通じて基幹産業に運用されている。投資対象にはエンジー(旧スエズ運河会社)と既に冒頭で説明したアレヴァがあり、これらはオートバンクと関係している。他の投資対象には自動車のルノーとプジョー、航空各社、電気通信各社があり、少なからず欧州の鉄鋼カルテルと関係している。中小企業への融資は主に庶民銀行が行っており、ほぼ弱者同士の互助で完結している。




OECD各国税収のタイプ別GDP比(%)。
赤は国家間、青は連邦・中央政府、紫は州、橙は地方、緑は社会保障基金[45]


1990年代後半は、ヨーロッパ通貨統合に参加するために強硬な財政赤字削減策が実施されたが、国民の強い反発を招き、消費拡大による景気刺激策に方針が転換された。しかし、2000年を境にGDPの実質経済成長率は大きく低下して、財政赤字は2002年以降、連続して対GDP比3%以内というEUの財政協定の基準(収斂基準)を大きく超えていた。1990年代の大きな問題だった12%をこえる失業率も、90年代末から改善されて2001年には8%台になったが、その後は再び悪化して2005年初めには10%を突破した[46]。しかし、05年以降、世界経済の好調に助けられる形で経済は持ち直し、財政赤字は3%を切り、失業率も8%台にまで改善されたものの、世界金融危機_(2007年-)で財政出動を余儀なくされたことから、GDP比3%の財政赤字の基準は守れておらず、EUの欧州委員会から財政赤字の立て直しの勧告が出されている[47]。デクシアの救済劇は、資本輸出先であるベルギーとで両国政府が大株主も伴い64億ユーロも注入する有様となった[48]


2008年度版フォーチュン・グローバル500によると、総収入を指標とした全世界の企業ランキングリストのうち上位100位に含まれるフランス企業は、国際石油資本のトタル(本社パリ、8位)、保険のアクサ(パリ、15位)、金融のBNPパリバ(パリ、21位)、金融のクレディ・アグリコル(パリ、23位)、小売のカルフール(パリ、33位)、金融のソシエテ・ジェネラル(パリ、43位)、自動車メーカーのプジョー(パリ、66位)、電力会社のフランス電力(パリ、68位)、電気通信事業者のフランステレコム(パリ、84位、現Orange)、水道や電力、ガス事業などを行うスエズ(パリ、97位、現エンジー)が並ぶ。


2009年3月、「経済危機のつけを労働者に回すな」をスローガンに、1月の前回100万~250万人を上回り、全国で300万人が統一行動を行った。サルコジ政権は、昨年12月260億ユーロ規模の経済活性化対策を発表した。さらに所得税減税など14億ユーロ規模の低所得者向け支援策を提案し、その後26億ユーロ規模に増額した。2010年に未来のための投資プログラムをスタートし、パリ=サクレー学研都市(フランス語版、英語版)などへ投資をするようになった。


2012年5月からフランソワ・オランドが政権をとり、翌年に公的投資銀行(フランス語版、英語版)を設けて中小企業を支援するようになった。公的投資銀行に国家出資庁が出資する程度はごく僅かである。公的投資銀行は公営である本部と加盟企業に分かれている。本部へは国が出資庁を介さずに直接資金を提供する。加盟企業はその本部から、または預金供託公庫から資金を調達して、これを原資に中小企業の債権や株式を引受ける。



農業


EU最大の農業国で「ヨーロッパのパン籠」と言われる。穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位以内の生産高を誇る。地形が概して平坦なため、国土面積の53.6%が農業用地と比率的には日本の約4.5倍に達し、国土の36%が耕作地で、18%が酪農用地である(国連FAO)。農業従事者は労働力の約3%。1955~2000年で農家の数は3分の1に減少し、相対的に1農家当たりの農地面積、経営規模が拡大した。穀物は、小麦、大麦、トウモロコシ、根菜はじゃがいも、テンサイ、畜産ではブタ、鶏卵、牛乳の生産が際立つ。このほか、亜麻やなたねの生産高も多い。テンサイの生産高は世界一である。政府は農業を重要輸出産業とし国際競争力の強化を図る他、農業経営の近代化、若年層の就農促進等の政策を実施している。


フランスの鉄道は作物の流通に不可欠である。昔は路線自体が必要だった。北部鉄道で知られるフランスの鉄道史において、19世紀のハブがパリしかないような状態だった。そのときまで穀物価格には地域格差がしばしば生じた。ヴァンデル等による鉄鋼カルテルが、レールの供給とクレディ・アグリコルの発足を遅らせた。20世紀に路線網が充実し、土地の権利関係も制度レベルから整理されていったので、それからは重量貨物の輸送手段として活躍している。1960年「基本法」農政がスタートした。そこでアグリビジネスが促進され土地バブルを引き起こした。輸出作物に補助金が積まれ、それが貿易摩擦も引き起こした。



鉱業


第二次世界大戦後までは、ルール地方の鉄と石炭が鉱業の大半を占めていた。もっとも鉄はロレーヌ地域圏でもよく産出された。戦後は国土の北東部に偏っていた鉱業が南東部でも営まれるようになった。21世紀初頭においては既に鉄鉱石の採掘は行われておらず、金属鉱物資源は鉱業の対象となっていない。アフリカなどに十分な利権を維持しており、世界金融危機において著しく増産した。最も規模が大きい鉱物資源は世界シェア8位 (3.3%) の塩(700万トン、2002年時点)である。これはスイスに共通する特徴である。塩の食用需要は限られ、大部分は化学工業需要である。たとえばルーセル・ユクラフが使用する。


有機鉱物資源では、石炭、石油、天然ガスとも産出するが、いずれもエネルギー需要の数%を満たす水準である。例えば石油の自給率は1.6%にとどまる。金属資源では、金、銀、その他の地下資源ではカリ塩、硫黄を採掘している。



工業





ルノー・ヴェルサティス


フランスの工業は食品工業、製材、製紙、運輸、機械、電気機械、金属、石油化学工業、自動車産業が中心である。世界一の生産高を誇るワイン、世界第2のチーズのほか、バター、肉も五本の指に入り、製糖業も盛ん。製材、製紙はいずれもヨーロッパ随一である。石油化学工業は燃料製造、プラスチック、合成ゴム、タイヤと全部門にわたる。特に合成ゴムとタイヤ製造が著しい。たとえば旧フランス領インドシナで採取した樹液が、接収したヒュルス社のライセンスで加工され、鎧にもなるミシュランのタイヤが作られる[49]


自動車製造業は世界7位の規模である。自動車の生産は古くから行われており、常に生産台数が世界で10番目に入る自動車大国でもある。主なメーカーとして現在日本の日産自動車を傘下に収めるルノーや、PSA・プジョーシトロエンなどがある。国防産業では、タレス、DCNS、サフランなどの大企業が存在し、これらによる造船業も盛んである。





エールフランスのエアバスA318


フランスのフラッグ・キャリアは、エールフランスであり、スカイチームに設立時から所属している。EADSやエアバス、マトラ、ダッソーなどの企業が代表するように航空宇宙産業も発達しており、ロシアを除きヨーロッパではフランスだけが宇宙船発射能力を持つ。


エネルギーでは原子力発電への依存率が世界で最も高い。電力のおよそ78%が原子力発電でまかなわれているのに対し、火力発電は約11%、水力発電は約10%にすぎない[50]。発電用原子炉の数はアメリカ合衆国に次ぐ59基。2001年時点の総発電量5,627億kW時のうち、74.8%(4,211億kW時)を原子力が占める。原子力による発電量自体もアメリカ合衆国の7,688億kW時に次いで2位である。フランスの発電は原子力以下、水力14.7%、火力10.4%、地熱0.1%が続く。総発電量では世界第8位を占めていて、近隣諸国にも多くの電力を供給しており、EUで最大の電力輸出国となっている。主な原子力発電所は、グラブリン原子力発電所(5,706千kW、ノール県)、パリュエル原子力発電所(5,528千kW、セーヌ=マリティーム県)、カットノン原子力発電所(5,448千kW、モゼル県)。2001年現在で発電規模世界第4位、5位、6位を占める。



貿易


フランスは伝統的に西ヨーロッパにおける最も重要な農業国である。さらに、第二次世界大戦後に工業関連企業を国有化することによって合理化が進み、EC域内の工業国としてもドイツに次いで重要な位置を占めるようになった。2003年における全工業製品の輸出額はドイツの約40%であった[51]。フランス工業(EC域内工業)の特徴は域内分業である。各産業は国内市場よりもEC域内市場を対象としており、フランスにおいても2004年における貿易依存度は輸出20.7%、輸入21.6%まで高まっている。2003年における輸出額は3660億ドル、輸入額は3696億ドルである。


輸出を金額ベースで見ると、工業製品が大半を占める。品目別では、自動車14.3%、電気機械11.2%、機械類10.4%、航空機5.4%、医薬品5.0%である。工業製品が80.4%、食料品が11.2%という比率になっている。主な輸出国は金額が多い順に、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、ベルギーであった。


フランスは2004年時点の小麦の世界貿易(輸出)において、第4位(12.5%、1,489万トン)を占めていた。さらにとうもろこしの世界貿易では第3位(7.4%、616万トン)、砂糖では第4位(5.2%、234万トン)、チーズでは第2位(14.3%、58.3万トン)を占めている。しかしながら、農産物は工業製品に比べて単価が安いことから輸出全体に占める比率は高くない。同じことが工業製品である鉄鋼の貿易にも当てはまる。フランスは2005年の世界貿易(輸出)において、第4位(1,800万トン)を占めているが、フランスの総輸出額に占める割合は5%未満である。一方、単価の高い自動車は2004年における輸出シェアが世界第2位(426.9万台)であることを反映し、もっとも重要な輸出品目となっている。


輸入は工業製品が77.4%、原材料と燃料が13.8%、食料品が8.4%という構成である。輸出入とも工業製品が約8割を占める。品目別では、電気機械13.1%、自動車11.0%、機械類10.0%、原油5.1%、衣類4.1%。主な輸入国は金額順に、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーであった。


1986年時点の貿易は、輸出1,191億ドル、輸入1,279億ドルであった。輸出に占める工業製品の比率は77.2%、食糧品は15.4%であることから、次第に輸出品に占める工業製品の割合が拡大して来たことが分かる。輸入品についてはこの傾向がより顕著である。



高失業率



オイルショック以降、フランスは慢性的な高失業率に悩まされている[46]。特に西アフリカや中東、北アフリカなどの元植民地からの移民とその子孫の失業率が高いため、不満が鬱積したこれらの失業者による暴動が度々起きている。とりわけ2005年10月27日に発生した移民の死傷事件は、これをきっかけに、パリを始めとしたフランス全土、さらに隣国のドイツやベルギーにも暴動が広がった(2005年パリ郊外暴動事件を参照)。


就業者を上げるために、2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇出来るという、青年雇用対策「初期雇用契約」(CPE)を制定したが、逆に「安易な首切りを横行させる」と若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学でのCPE反対の抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突する事態に陥った。CPE反対に際しては労働組合も同調しており、抗議行動への参加や、3月28日には全国でTGVをはじめとする鉄道やバスなど公共交通機関の運休のほか、郵便局や公立学校などの公的機関、銀行や電力会社など幅広い業種でゼネラルストライキが行われ、交通機関などで麻痺状態に陥った。ド・ビルパン首相は撤回に応じないと表明したが、4月10日になり、シラク大統領がCPEの撤回を表明した。



国民






グアドループの市場。フランスの海外県や海外領土には多数の有色人種系の市民が存在する。




フランスの人口ピラミッド


欧州最大の多民族国家であるフランスでは、本土ではケルト人・ラテン人・ゲルマン系のフランク人などの混成民族であるフランス人が大半を占める。基本的にはラテン化したケルト人を少数のゲルマン人が征服して成立した国、と見なすことが多いが、今も議論の的である。世界、特に欧州では混成民族でない国民はほとんど存在しないとはいえ、たとえばドイツ人がゲルマン人を主流としていることに異論は少ないのに対し、フランス人はそうした主流を挙げることが困難なほどに三つの流れが拮抗した比重を持つのが特徴である。また、本土でもブルターニュではケルト系のブルトン人、スペインとの国境付近にはバスク人、アルザスではドイツ系のアルザス人などの少数民族が存在する。また、コルシカ島もイタリア人に近い民族コルシカ人が中心である。一方、西インド諸島やポリネシアの海外県や海外領土では非白人の市民が多い。


1919年のパリ講和会議での人種的差別撤廃提案にも賛成するなど、フランス語とフランス文化に敬意を払う人間は他国人であっても同胞として遇することが求められている。しかしじっさいには、ドレフュス事件に代表されるように、人種差別に基づいた事件も繰り返されており、あえて宣言しなければならないというのが実情である。近年では前大統領サルコジが移民2世であるが、本人はアフリカ系住民への差別発言を繰り返し問題となった。




伝統的にフランスはスペイン、ポルトガル、東欧諸国などから多くの移民・政治的難民を受け入れており、低賃金労働に従事する労働者もいた一方、フランスに移住した有数な才能の手で文化や科学を発達させてきた。近年では、アフリカ(主に1960年代までフランスの植民地であった地域)・中近東からの移民が多い。



社会保障




OECD各国のGDPにおける社会的支出割合(公費および私費)[52]



フランスは高福祉高負担国家であり、GDPにおける社会的支出の割合はOECD中で最大である[52]。医療制度はユニバーサルヘルスケアが達成されており、大部分は国民健康保険にてカバーされる。WHOによる2000年の医療制度効率性ランキングにおいてはフランスが第一位となった。国民識別番号としてINSEEコード(NIR)が採用され、公的医療保険証(ヴィタルカード)などに用いられている。


また早くから少子化対策に取り組み、GDPのおよそ2.8%にも相当する巨費を投じ国を挙げて出産・育児を支援する制度を様々に取り入れてきた。代表的なものとしては世帯員(特に子供)が多い家庭ほど住民税や所得税などが低くなる『N分N乗税制』や、公共交通機関の世帯単位での割引制度、20歳までの育児手当などがある。この結果、1995年に1.65人まで低下したフランスの出生率は2000年1.89人に、2006年には2.005人にまで回復した。現在先進国で出生率が2人を超えている国は他にアメリカ合衆国とニュージーランドぐらいであり、フランスはヨーロッパ一の多産国となった[53]


ただ一方で子供を4人以上産めば事実上各種手当だけで生活する事が可能となり、結果として低所得者が多いアフリカ系の移民やイスラム系の外国人労働者を激増させているのではないかとの指摘もある。これに対してINSEE(フランス国立統計経済研究所)は「移民の出生率は平均より0.4%ほど高いが、全体に占める割合が大きくないので大勢にそれほど大きな影響を与えているわけではない」と説明している[54]



言語



現行の憲法第二条によると、1992年からフランス語はフランスの唯一の公用語である。ただし、オック語、ピカルディ語などの幾つものロマンス語系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語(ブレイス語)、アルザスではドイツ語の一方言であるアルザス語、北部フランドル・フランセーズではオランダ語類縁のフランス・フラマン語、コルシカではコルシカ語、海外県や海外領土ではクレオール諸語など77の地域語が各地で話されている。近年まで、フランス政府と国家の教育システムはこれらの言語の使用を留めてきたが、現在は様々な度合いで幾つかの学校では教えられている。その他にも移民によってポルトガル語、イタリア語、マグレブ・アラビア語、ベルベル諸語が話されている。フランス語は、フランスのみならず、旧植民地諸国(フランス語圏)をはじめとした多くの諸国で広く使用されている言語である。フランスは、点字が生まれた国でもある。


フランスではナポレオン法典によって子供につけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-PaulやJean-Lucのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような状況の中で名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子供に付けられる名前が少なく(アラン、フィリップなど)、同じ名前の人物が多数いる。また、婚姻によって姓が変わることはない(夫婦別姓)。



宗教






ゴシック建築の教会堂で、フランスの宗教建築を代表するサント・シャペル


宗教面では、国民の約7割がカトリックと言われている。カトリックの歴史も古くフランス国家はカトリック教会の長姉とも言われている。代表的な教会はノートルダム大聖堂、サン=ドニ大聖堂などが挙げられる。パリ外国宣教会はその宣教会。フランス革命以降、公共の場における政教分離が徹底され、宗教色が排除されている。


近年旧植民地からの移民の増加によりムスリム人口が増加し、知事も生まれた。フランスではフランス革命以来の伝統で政教分離(ライシテ)には徹底しており、2004年には公教育の場でムスリムの女子学生のスカーフをはじめとしてユダヤ教のキッパ、十字架など宗教的シンボルを禁止する法案が成立し、フランス内外のムスリムやユダヤ教徒から反発されている。一方でいくつかのキリスト教的シンボル(クリスマスツリーなど)はすでに一般化していて宗教的シンボルに値しないと許容されているため、宗教的差別であるという意見もある。



セクト対策


フランスでは政府としてセクトに対処している。非宗教性と中立性を謳ったライシテの概念、欧州人権条約等に配慮して実施されている。MIVILUDESという組織を中心に各省庁が連携して犯罪対策とその予防、洗脳対策などを基準にセクト団体に対処している。セクトとされる基準は犯罪性と被害者の存在と人権侵害である。セクトの選別基準に教義や宗派は関係しないし憲法等に織り込まれたライシテの概念からそのようなことはできない。2005年時点に置いてはセクト特有の犯罪を取り締まるための法律をより一般的な刑法へと発展させようとする方向も見せている。


フランス政府は地道な実績を積み上げている。特に悪質な団体を取り締まるために反セクト法(アブピカール法、セクト弾圧法等数多くの俗称で呼ばれた、正確な日本語訳は「人権及び基本的自由を侵害するセクト的運動の防止及び取り締まりを強化する2001年6月12日の法律第2001-504号」である)を制定し、被害者救済を確立するために判例を積み重ね、犯罪の未然防止や活動内容の監視の為に各県に専門部署を設置したり、子供への教育と称して洗脳や酷い教育が行われていないか監視するための部門を設置するなど多岐にわたる。裁判や法律の制定を通じて、セクト被害やその救済という概念を刑法に作り上げようとしている。


フランスのセクト対策に関しては疑問の声も多い。人種差別や宗教差別、人権無視に報道の自由の侵害など、少数派に対し不寛容な「人権の祖国」フランス政府の実態に対する疑問も提起されている。ただし疑問の声を提起する論者は、新聞記事の存在を無視する傾向が強い。新聞記事とこれらの疑問の声の間には内容に大きな乖離があり、信頼性については疑問符が付く。フランスのセクト対策は日本の大手新聞でも紹介されている。


フランス政府のセクト選別基準はライシテを回避するため、犯罪性や人権侵害が基準になっている。このセクト対策を宗教弾圧だとする意見もあるが、宗教に干渉しているのでなく、政府は犯罪を取り締まっている。しかしフランス政府は単純な取り締まりだけを考えているわけでもない。報告書に見られるように、セクトは大衆の需要を満たし大衆の望むものを提供しているからこそ繁栄しているのであり、単純に弾圧できるものではない。またある団体の行動や習慣を異常と見るか、多文化と見るかも非常に難しい問題であると記述されている。多文化と異常行動の線引き、この難しい問題に対しフランス政府は西欧的人権や被害者の存在に根拠を置くことでバランスを取っている。


フランス国内でも、セクト対策は宗教弾圧になりうる危険性があり、ライシテの根幹にもかかわる問題のために、多数の議論を巻き起こし、この過程で「進化するライシテ」「新しいライシテ」等の概念が示された。


フランス政府のセクト対策に係わる日本語訳資料については、s:フランス政府セクト対策一覧(WikiSource)参照。



教育






ソルボンヌ大学


2歳から5歳までの就学前教育の後、6歳から16歳までの10年間が無償の初等教育と前期中等教育期間となり、6歳から11歳までの5年間がエコール・プリメール(小学校)、その後4年間がコレージュ(中学校)となる。前期中等教育の後3年間のリセ(高等学校)による後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。2003年の推計によると、15歳上の国民の識字率は99%である[55]。コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になってもいる。しかし、フランスの教育制度が民衆に等しく手厚いことを必ずしも意味しない。


リセ卒業時に行われるバカロレアに合格すれば任意の総合大学・単科大学へ入学できる。ただし、グランゼコールをふくむ一部のエリート大学はこの限りでない。代表的な高等教育機関としてはパリ大学(1211年)、モンペリエ大学(1289年)、エクス=マルセイユ大学(1609年)、ストラスブール大学(1631年)、リヨン大学(1809年)、パリ・カトリック大学、エコール・ノルマル、エコール・ポリテクニーク、パリ国立高等鉱業学校、エコール・サントラルなどが挙げられる。


フランスの公立学校では、10人に1人がいじめの被害にあっているとされ、いじめが大きな社会問題となっている。しかしフランスは、他のヨーロッパ諸国より、いじめ対策が遅れているとされる[56]



文化



文豪スタンダール、オノレ・ド・バルザック、ヴィクトル・ユーゴーをはじめ中世より文学が発達しており、音楽も盛んである。絵画やファッションの分野では数世紀の間欧州世界をリードする地位にあると言われ、近年においてもファッションにおいてはイタリアと並び世界をリードする地位にある。また、長年芸術面で欧州世界をリードする地位にあることから、パリを中心に多くの諸外国の芸術家やクリエイターを引きつけている。特に画家は多いが、音楽でもドイツ人であるグルック、オッフェンバック、ジャコモ・マイアベーアがパリを拠点とするなど、多くの外国の才能を吸引した。



食文化






フランスワイン


食文化の面では、400年以上前イタリアで生まれた豊かな農産物と王制時代の宮廷文化を背景にしたフランス料理が有名である。また、現代におけるフランス料理の形を確立させたのは、主にアントナン・カレームとオーギュスト・エスコフィエの両名のシェフによる功績とされており、特にカレームの考案したピエス・モンテーにおいては現代の日本の洋風結婚式における豪華なウェディングケーキなどの形で一般的に普及している。それと現在におけるフランス料理や代表するシェフおいても“トリュフのパイ包みのスープ”を考案したポール・ボキューズなど有名なシェフや料理が数多く存在しており、現在のフランス料理やそれを調理する料理人を取り巻く環境は常に進歩し続けている。そして、上流階級のフランス料理の他にも地方毎に様々な特色を持つ郷土料理が存在している。麦のクレープガレットや、ケーキなどの菓子文化も発達した。バゲットやバタール、クロワッサンなどのフランス発祥のパンも、日本ではフランスパンと呼ばれて親しまれている。コンソメやヴィシソワーズなどのポタージュにおけるフランス発祥のスープも有名であり、日本料理におけるコロッケも明治期の日本にフランスから来たクロケットが独自進化し日本風にアレンジされて発展したモノが今日に至るのである。あと、チーズ、ワインの生産国としても名高く、AOC法によって厳格に品質管理されたフランスワインは広く国内外に親しまれている。また、ブランデーの生産も盛んで、特にコニャック地方で生産されるブランデーは品質の良さで知られる。カフェ文化が育ったのもフランスであり、17世紀後半に生まれたフランスのカフェ文化は、現在まで広く世界中に根付いている。



文学







ヴィクトル・ユーゴー


中世においては騎士道を歌い上げる叙事詩が文学の主流を担い、11世紀に『ローランの歌』が成立した。


ルネサンス期にはフランソワ・ラブレーが活躍し、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を著した。その後の絶対主義時代からフランス革命期にかけてマルキ・ド・サドなどが活躍した。


19世紀には『赤と黒』のスタンダール、オノレ・ド・バルザック、『レ・ミゼラブル』のヴィクトル・ユーゴー、『三銃士』のアレクサンドル・デュマ・ペールなどが活躍した。『八十日間世界一周』、『海底二万里』で知られるジュール・ヴェルヌはサイエンス・フィクションの先駆者となった。1873年、アルフォンス・ドーデの『最後の授業』を含む短編集が出版され、フランス語の愛国教育が始まったことが知られている。アルザス=ロレーヌ地方での使用言語はアルザス語、ロートリンゲン方言(ドイツ語版、フランス語版、英語版)、ロレーヌ方言など多様であるが、そういった事情は一切隠蔽した反独プロパガンダが行われた。
19世紀には、国家観について、ナポレオン戦争期のヨハン・ゴットリープ・フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ(ドイツ語版、英語版)』(1808年)と普仏戦争後のエルネスト・ルナン『国民とは何か?(フランス語版、英語版)』(1882年)の対比などから市民国家主義(英語版)と民族主義との相違が明確にされていたが、欧州では高まる民族主義が世界大戦へと向かわせた。また、一方でルナンは、『知的道徳的改革』(仏: La Réforme intellectuelle et morale)において、フランスの植民地主義による侵略を正当化している。


第一次世界大戦後の戦間期には、『帰郷ノート』などで知られるマルティニーク出身のエメ・セゼールは、セネガル出身のレオポール・セダール・サンゴールらと共に、科学的人種主義によって不当な扱いを受けていたアフリカ系黒人の文化の再評価を図るネグリチュード運動を担った。



哲学






「我思う、ゆえに我あり」のコギト命題で知られるルネ・デカルト


中世において神学者のピエール・アベラールは唯名論を唱え、スコラ学の基礎を築いた。後にスコラ学はシチリア王国出身のトマス・アクィナスの『神学大全』によって大成された。一方正統カトリック信仰とは異なる立場で南フランスでは一時グノーシス主義の影響を受けたカタリ派が勢力を伸ばしたが、アルビジョワ十字軍によるフランス王権の拡張やカトリックによる弾圧によってカタリ派は15世紀までに滅んだ。


ルネサンス期にはミシェル・ド・モンテーニュが活躍し、『エセー』を著してその中でアメリカ大陸やアフリカの住民を擁護した。しかし、モンテーニュの非西欧世界への視線は非西欧を「文明」として捉えることはせず、後のルソーに先んじて「高貴な野蛮人」として扱うものに留まった。


宗教改革や対抗宗教改革後の17世紀にはジャンセニスムやガリカニスムが隆盛を迎え、ブレーズ・パスカル、ジャック=ベニーニュ・ボシュエらが活躍し、それぞれの立場からカトリック信仰を擁護した。また、『方法序説』を著したルネ・デカルトによって近代哲学が成立した。


18世紀には信仰よりも理性を重視する啓蒙思想が発達し、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキュー、ヴォルテール、フランソワ・ケネーらが活躍した。これらの思想家は清の儒教の影響などもあって、それまでのキリスト教会が担っていた神聖な権威よりも理性を重視する合理主義的な考察を進め、君主による絶対主義を否定するアメリカ独立革命やフランス革命の理論的支柱となった。しかし、同時に啓蒙主義によってもたらされた合理主義は植民地のサン=ドマングや、18世紀末から19世紀末にかけて啓蒙思想を理論的支柱として独立したアメリカ合衆国やラテンアメリカ諸国において、理性を持たない「半人間」という扱いをうけた黒人やアメリカ先住民(インディアン、インディオ)を、「より理性的な」白人が合理的に奴隷化し、収奪することを合法化する思想ともなった[57]。フランス革命中に活躍した平等主義者フランソワ・ノエル・バブーフは、その思想の先見性から共産主義の先駆者と位置づけられた。『人権宣言』の説く「人間」に、女性が含まれないことを指摘したオランプ・ド・グージュはフェミニズムの先駆者となった。


啓蒙主義を理論的支柱としたフランス革命が一段落した19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモンやシャルル・フーリエによって社会主義思想が唱えられた。彼等の思想は後にカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって空想的社会主義と呼ばれた。同じ頃オーギュスト・コントは実証主義を唱え、実証主義は19世紀後半のラテンアメリカ諸国の政治や文化(1889年のブラジルの共和制革命など)に大きな影響を与えたが、資本主義経済の確立を唱えた実証主義は、ラテンアメリカにおいて、社会進化論などと共に国家が資本主義的な利用を図るために「野蛮」なインディオの共有地や解体し、半奴隷労働を強制することを理論的に支えた。19世紀半ばにピエール・ジョゼフ・プルードンは無政府主義(アナルキスム)を体系化し、無政府主義はミハイル・バクーニンによってマルクスとエンゲルスの史的唯物論(科学的社会主義)に対抗する社会主義思想となった。帝国主義の時代において、このような19世紀までの社会主義思想も含めた多くの社会思想は、マルクス主義者のポール・ルイ(ポール・レヴィ)や、哲学者のフェリシヤン・シャレのような数少ない例外を除いて植民地主義は「野蛮」な非西欧の「文明化」に奉仕するものだとして、真剣に植民地支配やその結果である収奪、暴力を批判する思想とはならなかった[58]


第一次世界大戦後の戦間期にはアンリ・ベルクソンやジョルジュ・ソレルらが活躍した。一方、植民地からはマルティニーク出身のエメ・セゼールやセネガル出身のレオポール・セダール・サンゴールが科学的人種主義によって不当に評価を低く見られていた黒人とアフリカ文明を再評価する、ネグリチュード運動が提唱された。





シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジャン=ポール・サルトル、チェ・ゲバラ(1960年、キューバ)


第二次世界大戦後には実存主義哲学が隆盛を迎え、ジャン=ポール・サルトルやマルティニーク出身のフランツ・ファノンは反帝国主義の立場からアルジェリア戦争に反対すると共に、アルゼンチンの革命思想家チェ・ゲバラのゲバラ主義や毛沢東の毛沢東主義と共に植民地や第三世界におけるマルクス主義による革命闘争の理論的支柱となった。実存主義者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールはフェミニズム運動を牽引した。1950年代から1960年代のフランスでは、知識人を中心に毛沢東主義が流行した。


実存主義の後には、1960年代からスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールや、人類学者クロード・レヴィ=ストロース、ヘーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴによって構造主義が隆盛を迎え、ルイ・アルチュセール、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、エマニュエル・レヴィナスなどが活躍した。オーストリアのジークムント・フロイトが大成した精神分析学は、20世紀後半にパリ・フロイト派を立ち上げたジャック・ラカンによって新たな段階に至った。構造主義の後にはポスト構造主義が隆盛を迎えたが、1994年のソーカル事件により、構造主義やポスト構造主義の「知の欺瞞」が暴露され、衒学的な姿勢は厳しく批判された。ただし、このような限界がありながらも、未だにフランス初のポストモダニスムはアラン・バディウのようなフランス人のみならず、アメリカ合衆国のガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァク(デリダ派)やジュディス・バトラー(フーコー派)スロヴェニアのスラヴォイ・ジジェク(ラカン派)らに批判的に継承され、発展を続けているのも事実である。


脱植民地化時代のマルティニークにおいてはセゼールやファノンの後継者であるエドゥアール・グリッサンの全世界論や、パトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアンらのクレオール主義が唱えられた。


1990年代には、かつてチェ・ゲバラと共にボリビアでの革命運動に参加したレジス・ドブレによってメディオロジーが唱えられ、また毛沢東派のアラン・バディウが活動し続けるなど、ポストモダニスム以外の哲学のあり方も変化している。



音楽





印象派の音楽家、ドビュッシー


17世紀前半まではイタリアと並ぶ音楽大国として君臨し、オペラを中心に栄えたが、今日ではこの時期の作品はラモー、リュリなどを例外として演奏機会は多くない。その後、ウィーン古典派からロマン派にかけてドイツ圏の作曲家たちに押されて奮わなくなり、パリで活躍する作曲家もドイツ系が多くなった。その一人オッフェンバックの傘下からビゼーが出現するが短命で世を去り、その後パリ楽壇のボス的存在であったサン=サーンスはドイツ人ペンネームを使うなど[要出典]、一種の文化植民地状態に陥ってしまう。しかし、そのサン=サーンスを批判したフランク(彼もドイツ系ベルギー人ではあったが)が現れた頃から独自のフランス音楽を模索する動きが高まり、19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルらによって一つの頂点を築く。本来は音楽先進国であったため、これらの運動はいわゆる国民楽派には含まれないことが多いが、ドイツ楽派の桎梏を逃れる動きという点では呼応するものがあった。


ポピュラー音楽においては20世紀初頭から1950年代にかけてミュゼットや、いわゆるシャンソンとして知られる音楽が流行し、エディット・ピアフやイヴ・モンタン、シャルル・アズナヴールなどが活躍した。また、戦前はアルゼンチンのタンゴが流行し、アルゼンチンでは「パリのカナロ」などの楽曲が作られた。


また、ジャズが幅広く浸透しており、アメリカのジャズを元に、独自の音楽性を発展させた形式に特徴がある。具体的には、Zeule と呼ばれる1つのジャンルにすらなっているマグマおよびその関係者であるディディエ・ロックウッドらの音楽がフランス国外でも広く知られている。


1960年代から1970年代にはアメリカ合衆国やイギリスのロックの影響を受け、セルジュ・ゲンスブールやシルヴィ・バルタン、フランス・ギャル、ジョニー・アリディ、ミッシェル・ポルナレフ、ジュリアン・クレール、アラン・シャンフォー、ロック・バンドではアンジュ、マルタン・サーカス、ズー、テレフォンヌなどが活躍した。1980年代以降はフランスの旧植民地から、出稼ぎにやってきた人々や活動の拠点を母国からフランスに移した音楽家も活躍し始め、セネガルのユッスー・ンドゥール、マリ共和国のサリフ・ケイタ、アルジェリア系のラシッド・タハやアマジーグ・カテブのような音楽家が活動している。



美術




『民衆を導く自由の女神』ウジェーヌ・ドラクロワ画







ルーヴル美術館





オルセー美術館


フランスは芸術の国として広くその名を知られており、国内、海外を問わず多くの芸術家がフランスで創作活動を行った。ファン・ゴッホやパブロ・ピカソ、ル・コルビュジエなどはフランスで創作活動を行った芸術家達の内の極一部である。


18世紀末から19世紀初めにかけては新古典主義により古代ギリシア・古代ローマの文化の復興運動が進められ、フランス革命を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドなどが活躍した。


19世紀前半にはロマン主義や写実主義が隆盛を迎え、ウジェーヌ・ドラクロワやギュスターヴ・クールベらが活躍した。19世紀後半には印象派、象徴派、ポスト印象派、ジャポニスムが隆盛を迎え、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャンらが活躍した。20世紀初頭にはフォーヴィスム(野獣派)、キュビスム、アール・ヌーヴォー、アール・デコが隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラックやアンリ・マティスらが活躍した。


1918年に第一次世界大戦が終結し、それまで世界の中心的地位を占めていたヨーロッパが衰退すると、戦間期にはシュルレアリスムなどそれまでの西欧の美術様式に逆らった美術運動が発展した。


第二次世界大戦後に冷戦構造の中でアメリカ合衆国が西側世界の中心となると、フランスの文化的な地位は相対的に低下したが、終戦直後から1950年代にかけてアンフォルメルや、1960年代に全盛を迎えたヌーヴォー・レアリスムなどでフランスの芸術運動はアメリカ合衆国と激しく主導権を争った。



映画




フランスにおける芸術の中でも近年とりわけ重要視される文化は映画である。フランスで映画は、第七芸術と呼ばれるほど、深く尊敬を集め親しみある存在である。


映画の歴史は1895年12月28日のリュミエール兄弟の上映によって始まり、20世紀初頭には文芸色の強い無声映画が多数作られた。毎年5月には南仏の都市カンヌにおいてカンヌ映画祭が開催され、世界中から優れた映画関係者が集まり華やかで盛大な催しが行なわれる。



  • ジャン=リュック・ゴダール

  • フランソワ・トリュフォー

  • リュック・ベッソン



ファッション






ヴァンドーム広場のシャネル本社


ファッションの大衆化が進んだ19世紀以降、特に20世紀に入ってからはフランスのファッションブランドが世界を席巻しており、ユベール・ド・ジバンシィやイヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオール、ココ・シャネルなどのファッションデザイナーによるオートクチュールやプレタポルテの他、これらのファッションブランドが展開する香水やバッグなどが人気を博している。他にも、ルイ・ヴィトンやエルメスなどの旅行用品や馬具のブランドが衣類や靴、バッグ、小物、香水などのラインを出し世界中で人気を博している。また、パリコレクションが世界中のファッション雑誌やバイヤーからの注目を集めていることから、フランス以外の諸外国のファッションデザイナーの多くがコレクションへの参加を行っており、日本からもコム・デ・ギャルソン(川久保玲)やケンゾー(1999年まで高田賢三)、Yohji Yamamoto(山本耀司)などの多数のファッションブランドが毎年参加しているなど隆盛を極めている。


これらのファッションにおけるフランスの隆盛は、フランス文化を諸外国に広めるだけでなく、外貨獲得にも大きく貢献していることから、現在では業界そのものが政府による大きなバックアップを受けている。



世界遺産





「西洋の驚異」と称されるモン・サン=ミシェル


フランス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が35件、自然遺産が3件存在する。さらにスペインにまたがって1件の複合遺産が登録されている。




祝祭日























































































日付 日本語表記 フランス語表記 備考
1月1日 元日 Jour de l'An
3月 - 4月
復活祭日曜日
Pâques
移動祝日
3月 - 4月
復活祭翌日の月曜日
Lundi de Pâques 移動祝日
5月1日 メーデー Fête du Travail
5月8日
第二次世界大戦戦勝記念日
Le 8 mai
4月 - 6月 キリスト昇天祭 Ascension 移動祝日
5月 - 6月中の日曜日 聖霊降臨祭 Pentecôte 移動祝日
5月 - 6月 聖霊降臨祭の翌日の月曜日 Lundi de Pentecôte 移動祝日
7月14日 革命記念日 Fête Nationale
8月15日 聖母被昇天祭 Assomption
11月1日 諸聖人の日 Toussaint
11月11日
第一次世界大戦休戦記念日
Fête de l'Armistice
12月25日 クリスマス Noël


スポーツ



フランスの3大人気スポーツはサッカー、自転車、ラグビーである。他にもモータースポーツ、および下記のスポーツが盛んである。



テニス


ローラン・ギャロスが代表するテニスも盛んで、世界的に著名な選手や監督、指導者も多い。四大大会の一つである全仏オープンはグランドスラム唯一のクレーコートとして有名。現在はジル・シモン、リシャール・ガスケ、ガエル・モンフィス、ジョー=ウィルフリード・ツォンガ、ファブリス・サントロ、セバスチャン・グロージャン等数多くのトップ選手のいる強豪国でもある。

ゴルフ

ゴルフ場は多いのにゴルフは競技人口が少なく、当のフランス人たちも不思議な現象と捉えている。

柔道

Judo と綴られる柔道は、競技人口が日本を上回るといわれる程の人気がある。

競馬


ロンシャン競馬場で凱旋門賞が芝コースでは世界最高峰の競走として知られる。また、繋駕速歩競走が盛んであり、平地競走・障害競走よりも人気があるといわれている。ヴァンセンヌ競馬場で行われるアメリカ賞は世界最高峰の競走で知られる。(詳細についてはフランスの競馬を参照)


他にはペタンクが年中よく親しまれており、アルプス地方ではスキーなどのウィンタースポーツが伝統的に盛んである。クリケットはマイナー競技といわれているが、自国開催の1900年パリオリンピックにおいてクリケット競技が唯一行われている。また、大西洋ではサーフィンが行われ、ヨーロッパサーフィンの中心地である。



サッカー


フランスで一番人気のスポーツとしては、サッカーが挙げられる。フランスはこれまでに、FIFAワールドカップ2大会とUEFA欧州選手権(通称EURO)2大会の開催国になった。1984年欧州選手権で優勝したフランス代表の流麗なサッカーは「シャンパン・フットボール」と形容された。2回目の自国開催となった1998年ワールドカップでは大会初優勝を遂げ、直後の2000年欧州選手権でも優勝を果たした。メンバーの多くを移民の末裔や海外県出身者が占める代表チームは、国民統合の象徴的な存在にもなった。2018 FIFAワールドカップでは20年ぶり2度目の優勝を成し遂げた。女子でもFIFA女子ワールドカップの第8回大会の開催国として2019年に開催される。


国内の1部リーグにはリーグ・アンがある。バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞したフランス人選手としては、レイモン・コパ、ミシェル・プラティニ、ジャン=ピエール・パパン、ジネディーヌ・ジダンなどが挙げられる。また、日本人選手ではオリンピック・マルセイユの酒井宏樹、RCストラスブールの川島永嗣、トゥールーズFCの昌子源がいる。


また、FIFA初代会長のロベール・ゲラン、ワールドカップ創設の功労者ジュール・リメ、欧州選手権の提唱者アンリ・ドロネー(Henri Delaunay)、ヨーロピアンカップの提唱者ガブリエル・アノ(Gabriel Hanot)、UEFAの会長となったプラティニなど、国際サッカーの発展において重要な役割を果たしたフランス人は数多い。その後、サッカー人口が増加した。



バスケットボール



近年数多くのNBA選手を輩出しており、中でもNBA史上初の外国人選手のファイナルMVP受賞者となったトニー・パーカーが有名。


国内にはLNBと呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。代表はこれまでにオリンピック出場6回、世界選手権出場5回を誇る。2000年シドニーオリンピックでは銀メダル獲得。決勝戦でドリームチームIVと呼ばれたアメリカを後一歩の所まで追い詰め、それまでの「アメリカ圧勝」の図式を崩した。この苦戦を機に、「ドリームチーム」という名前は使用されなくなった。


バスケットボール欧州選手権(通称『ユーロバスケット』)では、2005年に銅メダル獲得。代表チームの課題は、NBA選手が多い為、オフシーズンの代表招集に主力が全員揃わない傾向にある。代表チームのニックネームは「Les Bleus」。



サイクルロードレース




毎年7月に3週間以上かけて行われるツール・ド・フランス



世界最大で三大ツールの一つであるツール・ド・フランスが行われ、人気のスポーツである。ツール・ド・フランスの歴史は古く、1903年に第1回大会が行われて以来、二度の大戦によって1915年から1918年および、1940年から1946年の中断があるものの、2008年で95回を数える。しかし、近年ではフランス出身の選手はあまり活躍しておらず1985年のベルナール・イノーを最後に総合優勝者は出ていない。その他フランスで行われる主な大会としては、パリ~ニース、パリ〜ルーベ、ドーフィネ・リベレ、ツール・ド・フランス、GP西フランス・プルエー、パリ~ツールがある。



ラグビー


フランスにおいてラグビーは富裕層と南部を中心に人気を誇っている。国内ではサッカーと人気を二分するスポーツであり、欧州においてもイギリスに次ぐ強豪国である。フランス代表のパスとランが続く流麗で華やかなプレースタイルはしばしば「シャンパン・ラグビー」などと評される。2007年にはワールドカップ(W杯)を自国開催したが、準決勝で敗れ、初優勝はならなかった。フランス政府は全国9カ所に、少年層から青年層までの有望選手が勉強しながら育成できる施設をつくっている。



モータースポーツ


ルノーやプジョーといった最古の量販車メーカーを抱えることもあって、自動車が実用化されだした20世紀初頭から早くもフランス国内では自動車レースが盛んに行われるようになり、1906年には世界初のグランプリレース、フランスグランプリを開催している。他にも、1923年に初開催されたル・マン24時間レース、近年はフランス国内がコースに含まれなくなったが1979年初開催のパリ・ダカール・ラリーでも知られる。自動車会社としては、ルノー(ルノーF1)がF1、プジョー、シトロエンが主にラリーで活躍しているほか、マトラ、リジェといった比較的小規模なメーカーもF1やル・マンで存在感を示している。多くのドライバーもモータースポーツ黎明期より数多く輩出しており、そのため優れた結果を残したドライバーも数多い。



脚注


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  1. ^ Hargreaves, Alan G., ed (2005). Memory, Empire, and Postcolonialism: Legacies of French Colonialism. Lexington Books. p. 1. ISBN 9780739108215. http://books.google.com/books?id=UX8aeX_Lbi4C&pg=PA1. 


  2. ^ パリ連合銀行は1904年創設された。出資者は200家族のオタンゲ・マレ・ミラボーと、他にシュナイダー、ベルギー総合会社。


  3. ^ Compagnie de Financement de l'Industrie Atomique
    また、ロスチャイルド系で他にCompagnie d'application et de recherches atomiques (CARA)



  4. ^ M. Hinker "Aspects nouveaux de l'oligarchie financière en France" Economie et Politique 1958 p.93.


  5. ^ 2015年12月、アレヴァは8年前のウラニウム鉱山買収の際リベートした疑いで訴えられた。ウィキリークス The New Dirty War for Africa's uranium and mineral rights on 2016-02-05


  6. ^ フランソワ・シェネ 『不当な債務 いかに金融権力が、負債によって世界を支配しているか?』 作品社 2017年 139-140頁


  7. ^ 英語表記ではEU、ただしフランス語表記での略称はUE-Union européenne-フランス語:ユニオン ウロペンヌ となる。


  8. ^ フランソワ・シェネ 『不当な債務 いかに金融権力が、負債によって世界を支配しているか?』 作品社 2017年 16-18頁


  9. ^ 仏: le Royaume de France


  10. ^ 佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』(2009年、講談社、講談社現代新書)


  11. ^ フランス側は劣勢であったが、突如としてイスラム勢力が姿を消したために、防衛に成功した。理由は今も謎であり、巡礼の月が回ってきたとも、政変によるものとも諸説あるがハッキリしない。


  12. ^ Massacre of the Pure. Time. April 28, 1961.


  13. ^ Don O'Reilly. "Hundred Years' War: Joan of Arc and the Siege of Orléans". TheHistoryNet.com.


  14. ^ Warren Candler Scoville, The Persecution of Huguenots and French Economic Development, 1680-1720, University of California Press, p.142.


  15. ^ Vive la Contre-Revolution!. The New York Times. July 9, 1989.


  16. ^ Napoleon and German identity. Magazine article by Tim Blanning; History Today, Vol. 48, April 1998.


  17. ^ カール・マルクスの1852年の著書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でボナパルティズムという用語が定着した。


  18. ^ Larry Neal, A Concise History of International Finance, Cambridge University Press, 2015, "Barings' problems grew during 1890 after Argentina bonds, some issued to finance construction of water-works for the city of Buenos Aires, stopped payment. In short order, problems with bonds issued by Brazil's new government appeared, and given the importance of Brazilian remittances for maintaining Portugal's commitment to the gold standard, the Bank of Portugal suspended convertibility. The contagion among these three countries could have infected London as well, had the Bank of England not intervened to "rescue" Bareings with a fund it cobbled together from the other leading banks in London, supplemented by a major loan from the Banque de France, and a commitment by the Russian government to withhold its demands for gold on its deposits with Barings."


  19. ^ France's oldest WWI veteran dies. BBC News. January 20, 2008.


  20. ^ In France, a War of Memories Over Memories of War. The New York Times. March 4, 2009.


  21. ^ 関谷一彦、細身和志、山上浩嗣編著『はじめて学ぶフランス──関西学院大学講義「総合コースフランス研究」より』、関西学院大学出版会、2004年10月。 p.54


  22. ^ フランスの行革担当大臣から生の声を聞く 公務員の数は520万人、「公務員が多くて行革が大変だ(日経BP 2009年3月17日)


  23. ^ フランス軍がアフリカでの作戦に苦戦しているわけ 2013年1月29日 ウォールストリートジャーナル


  24. ^ 山田文比古『フランスの外交力』集英社(集英社新書) 2005 pp.129-130


  25. ^ パリ同時多発テロ:欧州に衝撃 仏大統領「厳しい試練」 Archived 2015年11月16日, at the Wayback Machine.毎日新聞 2015年11月14日


  26. ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・3』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年


  27. ^ フランス - 概況 - JETRO


  28. ^ 最近のフランス情勢および日仏関係 - 外務省


  29. ^ フランス - 概況 - JETRO


  30. ^ http://www.jetro.go.jp/jpn/stats/trade/excel/rank2004.xls 2004年日本の貿易相手国TOP50] - JETRO


  31. ^ フランス;貿易統計 輸出(国・地域別) - JETRO


  32. ^ 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』玉川大学出版部, 2004, p12


  33. ^ 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』玉川大学出版部, 2004, p13


  34. ^ 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』玉川大学出版部, 2004, p9


  35. ^ 『川と文化: 欧米の歴史を旅する』玉川大学出版部, 2004, p14


  36. ^ JLL、世界の都市比較インデックスを分析「都市パフォーマンスの解読」を発表 JLL 2017年10月25日閲覧。


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  38. ^ “Global Wealth Report”. Credit Suisse. 2014年10月27日閲覧。 “"In euro and USD terms, the total wealth of French households is very sizeable. Although it has just 1% of the world's adults, France ranks fourth among nations in aggregate household wealth – behind China and just ahead of Germany. Europe as a whole accounts for 35% of the individuals in the global top 1%, but France itself contributes a quarter of the European contingent.”


  39. ^ Centre national de documentation pédagogique, "2011, ANNÉE DES OUTRE-MER" [1]


  40. ^ “World Health Organization Assesses the World's Health Systems”. World Health Organization (2010年12月8日). 2011年7月16日閲覧。


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  46. ^ abオイルショックが発生した1974年は2.4%だった満15歳以上男女の失業率は第2次オイルショックがあった1979年には5.9%まで上昇、1990年代前半までは10%前後の失業率となっていた。“Laborsta”. ILO. 2009年12月22日閲覧。


  47. ^ “EU財務相会合、加盟13カ国に対し財政赤字削減の期限を設定”. ロイター. 2009年12月19日閲覧。


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  49. ^ ミシュランのキャラクターはタイヤを纏ったミイラのようだが、実際に合成ゴムのブナは大戦で軍服に使われた。


  50. ^ “L'électricité en France en 2008” (フランス語). Ministère de l'Écologie, de l'Énergie, du Developpement durable et de l'Aménagement du territorie. 2009年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月19日閲覧。


  51. ^ 統計値は、United Nations Statistical Yearbook 2004、「世界国勢図会 2005/06」、矢野恒太記念会、ISBN 4-87549-435-1 による。

  52. ^ ab OECD Social Expenditure Statistics (Report). OECD. (2011). doi:10.1787/socx-data-en. http://www.oecd.org/els/soc/expenditure.htm. 


  53. ^ Insee Premiere n°1118 - Bilan demographique 2006 : un excedent naturel record(フランス語)


  54. ^ フランスの05年出生数、3年連続増加・出生率1.94に - NIKKEI NET、2006年1月19日


  55. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/fr.html 2009年3月30日閲覧


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  57. ^ エドゥアルド・ガレアーノ『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年地』大久保 光夫訳 新評論 1971,1986 pp.102-104


  58. ^ 平野千果子『フランス植民地主義の歴史 奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』人文書院 2002/02 0pp.65-pp.81,pp.236-pp251




参考文献



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    ISBN 4-582-85114-2。

  • 梅本洋一、木下長宏、大里俊晴編 『現代フランスを知るための36章』 明石書店、2000年4月。
    ISBN 4-7503-1281-9。

  • 小倉孝誠 『パリとセーヌ川──橋と水辺の物語』 中央公論社〈中公新書〉、2008年5月。
    ISBN 4-12-101947-4。

  • 紅山雪夫 『フランスものしり紀行』 新潮社〈新潮文庫〉、2008年5月。
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  • ピエール・ガクソット『フランス人の歴史』全3巻、みすず書房。

  • 小田中直樹 『フランス7つの謎』 文藝春秋〈文春新書〉、2005年2月。
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  • 篠沢秀夫 『フランス三昧』 中央公論社〈中公新書〉、2002年1月。
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  • 柴田三千雄 『フランス史10講』 岩波書店〈岩波新書〉、2006年5月。
    ISBN 4-004-31016-4。

  • ミュリエル・ジョリヴェ/鳥取絹子訳 『移民と現代フランス──フランスは「住めば都」か』 集英社〈集英社新書〉、2003年4月。
    ISBN 4-08-720189-9。

  • 関谷一彦、細身和志、山上浩嗣編著 『はじめて学ぶフランス──関西学院大学講義「総合コースフランス研究」より』 関西学院大学出版会、2004年10月。

  • 平野千果子 『フランス植民地主義の歴史』 人文書院、2002年2月。
    ISBN 4-409-51049-5。

  • 福井憲彦編 『新版世界各国史12──フランス史』 山川出版社、2001年8月。
    ISBN 4-634-41420-1。


  • アンドレ・モロワ『フランス史』上・下、新潮社〈新潮文庫〉。

  • アンドレ・モロワ『フランス革命』読売新聞社、1950年。

  • 山田文比古 『フランスの外交力』 集英社〈集英社新書〉、2005年9月。
    ISBN 4-08-720310-7。



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