豊臣秀吉
凡例 豊臣秀吉 / 羽柴秀吉 | |
---|---|
豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵) | |
時代 | 戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文6年2月6日(1537年3月17日)[注釈 1] |
死没 | 慶長3年8月18日(1598年9月18日) |
改名 | 木下藤吉郎、秀吉、羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉 |
別名 | 別名:元吉[注釈 2] 渾名:木綿藤吉[注釈 3]、豊太閤、猿、禿げ鼠 |
神号 | 豊国大明神 |
戒名 | 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士 |
墓所 | 豊国神社(京都市東山区) 不動院(広島市東区) 高野山奥の院(和歌山県高野町) 国泰寺(広島市西区) |
官位 | 筑前守、従五位下・左近衛権少将、従四位下・参議、従三位・権大納言、正二位・内大臣、従一位・関白、太政大臣、贈正一位 |
主君 | 松下之綱 → 織田信長 → 秀信 |
氏族 | 木下氏([諸説あり]平姓 or 宇多源氏佐々木流)→ 羽柴氏(平姓 → 藤原姓(猶子)→ 豊臣姓(賜姓)) |
父母 | 父:[通説]木下弥右衛門(竹阿弥、昌吉ほか多数)、[別説]木下氏泰、 母:大政所(天瑞院、なか) 継父:[通説]竹阿弥、猶父:近衛前久 |
兄弟 | 日秀(三好吉房室)、秀吉、秀長、旭姫(佐治日向守室 → 副田吉成室 → 徳川家康室) |
妻 | 正室:浅野長勝の養女・高台院 側室:浅井長政の娘・淀殿 他 |
子 | 石松丸、一女、鶴松、秀頼 養子:秀次、秀康、秀俊、秀勝、豪姫、菊姫、竹林院、江、小姫、糸姫 他 猶子:八条宮智仁親王、近衛前子 他 |
特記 事項 | 馬印は「金瓢箪」[注釈 4]。「一の谷馬蘭兜」は秀吉の代表的兜とされる。 |
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人[1][2]。
初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。
尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。
目次
1 生涯
1.1 出自
1.2 松下家臣時代
1.3 織田家に仕官
1.4 織田政権下での台頭
1.5 播磨・但馬の攻略 - 中国攻め
1.6 信長の死から清洲会議まで
1.7 柴田勝家との対立
1.8 徳川家康との対立と朝廷への接近
1.9 関白任官と紀伊・四国・越中攻略
1.10 九州平定とバテレン追放令
1.11 朝臣として聚楽第を構える
1.12 小田原征伐から奥羽仕置
1.13 奥羽再仕置
1.14 天下統一
1.15 文禄の役
1.16 秀次切腹事件
1.17 サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑
1.18 慶長の役
1.19 最期
2 年表
3 人物
3.1 出身・家系
3.2 容姿
3.3 死因
3.4 逸話
3.5 文化・芸事
3.6 本能寺の変の黒幕説
4 政策
4.1 朝臣体制
4.2 国内統治システム
4.3 宗教政策
4.3.1 自身の神格化
4.4 外交政策
4.5 人事政策
5 後世の評価
6 系譜
6.1 略系図
6.2 妻子
6.3 養子
6.4 養女
6.5 猶子
7 家臣
8 史跡等
8.1 墓所・霊廟・神社
8.2 資料館
9 豊臣秀吉を題材とする作品
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 参考文献
11.1 史料
12 関連項目
13 外部リンク
生涯
出自
秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない[3]。
秀吉は自身の御伽衆である大村由己に伝記『天正記』を書かせているが、大村由己による秀吉の素性の説明は、本毎に異なっている。大村は本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いたが、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることがほのめかされている[4]。当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書けと云ったとみられている[4]。また松永貞徳が著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記録されている[4][5]。しかし、これらは事実とは考えられていない[6][4][7]。一般には下層階級の出身であったと考えられている。
江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。通俗説で父とされる木下弥右衛門[注釈 5]や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている[8]。また『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、『平豊小説』では私生児であったとしている[9]。『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとしている[9]。
生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている。
広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされる。『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もある[6]。秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団[10]や行商人[注釈 6]であったとする非農業民説[注釈 7]、水野氏説[注釈 8]、また漂泊民の山窩出身説[注釈 9]、などがあるが、真相は不明である。
松下家臣時代
はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り[注釈 10]、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した[注釈 11]。
なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3,000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。
織田家に仕官
天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える[注釈 12]。
清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。また、有名な逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)した[注釈 13]。
永禄4年(1561年)8月[11]、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚する。ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねは反対を押し切って嫁いだ[注釈 14]。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった[12]。桑田忠親は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとしている[13]。
永禄7年(1564年)、美濃国の斎藤龍興との戦いの中で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させた[14]。
秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)[6]。このことは、秀吉が信長の有力部将の一人として認められていたことを示している[15]。
永禄9年(1566年)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある[注釈 15]。また、この頃、蜂須賀正勝・前野長康[注釈 16]らを配下に組み入れている。
永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、秀吉の要請により信長から竹中重治を、牧村利貞、丸毛兼利と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。
永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている。同年、信長の上洛に際して明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。
永禄12年(1569年)5月に毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。
元亀元年(1570年)、越前国の朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口)[注釈 17]。
そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した(志賀の陣)。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげた。
元亀3年(1572年)8月頃、丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望から[16]木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)[注釈 18]。
織田政権下での台頭
天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした[18]。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている[17]。
天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。
天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。
播磨・但馬の攻略 - 中国攻め
天正5年(1577年)10月23日、信長に毛利輝元ら毛利氏の勢力下にある中国地方攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを従える。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた[19]。
秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。
天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国・美作国の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。
天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。
同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。
山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。
天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。
同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。
天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。
このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。
信長の死から清洲会議まで
天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。
6月13日、秀吉は山崎において明智光秀と戦った。この戦いでは、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀は落ち武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。
6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが[注釈 19]、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。
信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢と伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後国、筒井順慶は大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の滋賀郡・高島郡15万石の加増、池田恒興は摂津国尼崎と大坂15万石の加増、堀秀政は近江国佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国(公式には秀吉の養子で信長の四男の羽柴秀勝に与えられた)や山城国・河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。
「山崎合戦之地」の石碑
秀吉の旗立松、山崎合戦時、天王山
宝寺城の本丸跡
柴田勝家との対立
秀吉は山崎に宝寺城を築城し、山崎と丹波国で検地を実施し、さらに私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったため、柴田勝家との対立が激しくなった。天正10年(1582年)10月、勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。10月15日、秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行う。同年10月20日付堀秀政宛の秀吉書状の宛名には、羽柴の名字が使用されており、すでに秀吉による織田家臣の掌握が始まっていることが分かる[21]。10月28日、秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故にし、信雄を織田家当主として擁立し主従関係を結ぶ[22]。ただし、これは三法師が成人するまでの暫定的なものであった[22]。
12月、越前国の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏し、秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃国に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。
天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝、関城や伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城や中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷や細川忠興・山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。
2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江国に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。
4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃国に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。
4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国、能登国、越中国も平定し、前田利家には元々の領地である能登国に加えて加賀国のうちの2郡を与え、佐々成政には越中国の支配をこれまで通り安堵した。5月2日(異説あり)には、織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。
こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を差配することになった。
徳川家康との対立と朝廷への接近
天正11年(1583年)、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築く。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた[注釈 20]。
6月には、北条氏と徳川氏との婚姻成立に危機感を抱いた関東の領主たちから書状が送られ、関東の無事を求められる[23]。10月末に、徳川家康に関東の無事が遅れていることについて書状で糺した[24]。
天正12年(1584年)、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時・岡田重孝・津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友で、天正壬午の乱を経て東国における一大勢力となった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親や紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。
これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃国の池田恒興(勝入斎)をも、尾張国と三河国を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢国においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。
しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出て、羽黒に布陣していた森長可を破った(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。
そのような中、森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である羽柴信吉(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし作戦は失敗し、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。
こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など、信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略してゆき、危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和し、家康も次男を人質に提出して降伏した[25]。こうして秀吉は、軍事的にも身分的にも織田信雄を超えることで、織田政権の一角から、豊臣政権の長へと君臨することになった[26]
この戦いの最中の10月15日、秀吉は初めて従五位下左近衛権少将に叙位任官された[注釈 21]。
秀吉は官職でも、順次主家の織田家を凌駕することになり、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった[6]。
なお、その後も家臣となった有力大名に対する「羽柴」の苗字下賜は続いており、例えば前田利家は天正14年(1586年)3月20日に左近衛権少将に任じられた時に秀吉から「羽柴」の苗字と「筑前守」の受領名を与えられており、秀吉のかつての名乗りであった「羽柴筑前守」が利家によって名乗られることになる[27]。
関白任官と紀伊・四国・越中攻略
天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任され[28]、これにより公卿となった。この際、将軍任官を勧められたがこれを断る[29][注釈 22]。
天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。そして3月21日には紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで紀伊国を平定した(紀州征伐)。
四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず、7月25日に降伏。元親は土佐一国のみを安堵されて許された(四国攻め・四国平定)。
秀吉はこの四国討伐の最中、二条昭実と近衛信輔との間で朝廷を二分して紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に介入し、近衛前久の猶子となり、7月11日には関白宣下を受けた。
- 関白辞令の宣旨[32]
權大納言藤原朝臣淳光宣、奉勅、萬機巨細、宜令內大臣關白者
天正十三年七月十一日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉
— 「足守木下家文書」
右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます →
- 権大納言藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。
天正13年7月11日 掃部頭兼大外記造酒正中原朝臣師廉 奉(うけたまわ)る
- 権大納言藤原朝臣淳光宣(の)る。勅(みことのり)を奉(うけたまわ)るに、万機(ばんき)巨細(こさい)、宜しく内大臣をして関白にせしむべし者(といえり)。
- 関白辞令の詔書
詔、以庸質當金鏡、妥政績於通三、以愚昧受瑤圖、增德耀於明一、夢不見良弼、誰能諫言、內大臣藤原朝臣、名翼翔朝、威霆驚世、固禁闕之藩屛、忠信無私、居藤門之棟梁、奇才惟異、夫萬機巨細、百官惣己、皆先關白、然後奏下、一如舊典、庶歸五風十雨之舊日、專聽一天四海之艾寧、布告遐邇、俾知朕意、主者施行、天正十三年七月十一日
— 「天正六年以來關白詔勅書」
右の[表示]をクリックすると読み下し文を読むことができます →
- 詔(みことのり)して、庸(ひととなり)を質(もち)いて金鏡に当て、政績(せいせき)通三(つうさん)に妥(やすん)ず、愚昧(ぐまい)を以て瑤図(ようず)を受け、徳耀(とくよう)明一を増す、夢良弼(りょうひつ)を見(あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ、内大臣藤原朝臣、名は朝(みかど)を翼翔(よくしょう)し、威霆(いてい)世に驚かす、禁闕の藩屛を固くし、忠信私無し、藤門の棟梁に居(すわ)りて、奇才惟(ただ)異にす、夫(そ)れ万機巨細、百官を己(みずから)惣(す)べ、皆先んじて関(あずか)り白(もう)す、然る後、奏下すること一(もっぱ)ら旧典の如く、庶(もろもろ)五風十雨の旧日に帰す、専ら一天四海の艾寧(がいねい)を聴(はか)り、遐邇(かじ)に布(し)き告げて朕の意を知ら俾(し)めよ、主者施行(しゅしゃしぎょう)せよ、天正13年7月11日
8月から前年の小牧・長久手の戦いを機に反旗を翻した越中国の佐々成政に対しても討伐を開始したが(富山の役)、ほとんど戦うことなくして成政は8月25日には剃髪して秀吉に降伏している。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。また年末、天正地震が中部を襲った。
閏8月末には、家康が真田領に侵攻したが、10月に秀吉が仲介に入り和睦した[33][注釈 23]。
同年秋、秀吉は金山宗洗を奥羽の諸領主間の和睦と調査のために派遣した。宗洗はその後、天正14年(1586年)末から15年春と天正15年(1587年)末から16年秋の3回にわたって奥羽入りし奥羽諸領主との折衝に当たった[34]。
この年に家臣の脇坂安治宛の書状で、追放した者を匿うことのないよう警告として「追放した者を少々隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている[35][36]。
天正14年(1586年)9月9日、秀吉は正親町天皇から豊臣の姓を賜り[注釈 24]、12月25日には太政大臣に就任し[注釈 25]、ここに豊臣政権を確立させた[注釈 26]。
また、これより前に徳川家康に対しては融和策に転じており、同年5月に妹・朝日姫を家康の正室として嫁がせ、さらに9月には母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促した。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った[注釈 27]。だが、結果的には秀吉は家康を軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係に止まり、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続した。家康は北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった[39]。
九州平定とバテレン追放令
その頃、九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を伸ばしており、島津氏に圧迫された大友宗麟が大坂まで来て、秀吉に助けを求めた。秀吉は、島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令を発したが、九州制圧を目前にしていた島津氏はこれを無視したので、秀吉は島津を討伐することを決めた。
天正14年(1586年)12月、まず大友義統への増援として、仙石秀久を軍監とした長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保らの四国勢が派遣され、豊後戸次川(現在の大野川)において島津家久と交戦したが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして敗戦を喫した(戸次川の戦い)。
天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長の軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、宮部継潤、宇喜多秀家らの軍勢と合流し豊臣軍の総勢10万が九州に到着。
同年 4月17日に日向国根城坂で行なわれた豊臣秀長軍と島津義久軍による合戦(根白坂の戦い)においては、砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を守備。
九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で、博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。
同年10月1日には京都にある北野天満宮の境内と松原において千利休・津田宗及・今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶湯)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加して野点が行われた。また、黄金の茶室も披露されている。
12月、秀吉は伊達氏、最上氏、後北条氏など関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令した[40]。
朝臣として聚楽第を構える
天正15年(1587年)、平安京大内裏跡(内野)に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽第」と名付ける(『太閤記』、フロイス『日本史』)。
天正16年(1588年)4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。また、同年には毛利輝元が上洛し、完全に臣従した。さらに、刀狩令や海賊停止令を発布、全国的に施行した[41]。
イエズス会の宣教師たちは、この天正16年の段階で「この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった。」[42]「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった。」[42]と『イエズス会日本報告集』に記しており、秀吉は天正16年段階ですでに日本国の完璧な支配を達成していたとする。
後代の歴史家も同様の認識を示しており、池享は前年に九州を平定し、後陽成天皇の聚楽第行幸を成功させた天正16年に秀吉は「事実上の国王」になったとしている[43]。また堀越祐一はそれまで秀吉直臣系や旧織田系の大名のみに与えられていた羽柴氏・豊臣姓の付与が天正16年頃から毛利氏、島津氏、大友氏、龍造寺氏ら秀吉に臣従した大名たちにも与えられるようになることを重要視し、この時期に豊臣政権は成立したとしている。奥羽仕置後に伊達氏。最上氏、宇都宮氏にも氏姓が与えられることになるが、これらはすでに確立していたシステムを東国に適用したに過ぎないとしている[44]。
小田原征伐から奥羽仕置
天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野名胡桃城を奪取したことをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に20万の大軍で関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。
後北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略され、本城である小田原城も3か月の篭城戦の後に開城された。秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣である滝川雄利を使者として遣わし、北条氏政・北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放となった[45]。
秀吉が東国へ出陣すると最上義光、伊達政宗ら奥羽の大名も小田原に参陣し、奥羽両国の平定も大きく前進した[46]。小田原開城後の7月26日、秀吉は下野宇都宮城に入り、奥羽の領主に対する仕置を行った。葛西氏・大崎氏など小田原に参陣しなかった領主は改易とされ、総無事令を無視して蘆名氏などを攻めた伊達政宗には減封の処分が下され、最上義光ら小田原に参陣した領主は所領を安堵された。政宗から召し上げた所領の内、旧蘆名領は蒲生氏郷に(蘆名義広は佐竹氏与力とされた)、葛西・大崎領は木村吉清に与えられた。
奥羽再仕置
天正18年(1590年)、陸奥の葛西・大崎、和賀・稗貫、出羽の仙北・由利・庄内の国衆たちは豊臣政権の仕置に反発して一揆を起こした。このうち出羽の一揆は同年中に鎮圧され、津軽氏ら出羽の大小名らは上洛し、秀吉から領地安堵の下知を受けた。しかし陸奥の葛西大崎一揆は翌天正19年(1591年)になっても続き、更に南部信直との関係が悪化した九戸政実も武装蜂起し騒乱が収まることはなかった[47]。
そのため豊臣秀吉は天正19年(1591年)6月、豊臣秀次を総大将とする総勢6万の大軍を奥羽に派遣し鎮圧に当たらせた[48]。この再仕置軍は秀次を筆頭に徳川家康、蒲生氏郷、佐竹義重、上杉景勝、伊達政宗、宇都宮国綱らを主力とし[49]、蠣崎氏も蝦夷から参陣した。蠣崎氏と蒲生氏の軍勢のなかには毒矢を射るアイヌ兵も含まれていた[50][51]。奥羽に到着した再仕置軍は9月1日九戸攻撃を開始し4日には平定を完了させた[52]。
天下統一
全国を平定し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった有力大名を滅ぼすことはしなかった。徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった[注釈 28]。
天正19年(1591年)、弟の豊臣秀長、後継者に指名していた鶴松が、相次いで病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。この年、重用してきた茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子である古田重然、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。
この年、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のためだったとも、或いは戦乱のために定かでなくなっていた洛中と洛外の境を明らかにするためだったともされる。
文禄の役
天正19年(1591年)8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始める。文禄元年(1592年)3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は日本軍が朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始された。
秀次切腹事件
文禄2年(1593年)8月3日に側室の淀殿が秀頼(拾)を産んだ。秀吉は新築されたばかりの伏見城に母子を伴って移り住んだ。当初、秀吉は聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にあって仲を取り持つつもりであった。山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると言ったそうである[53][54]。
また駒井重勝の『駒井日記』(10月1日)の記述によると、将来は前田利家夫妻を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが、秀吉の考えであると木下吉隆が言ったという[55]。ところが、秀頼誕生に焦った秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、次第に情緒不安定となった[54]。
文禄4年(1595年)6月[56]、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。7月3日、聚楽第の秀次のもとへ石田三成・前田玄以・増田長盛・宮部継潤・富田一白の5人[注釈 29]が訪れ、謀反の疑いにより五箇条の詰問状を示して清洲城に蟄居することを促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った。8日、再び使者が訪れ伏見に出頭するよう促され、秀次は伏見城へ赴くが、引見は許されず木下吉隆邸に留め置かれ、その夜に上使により剃髪を命じられて、高野山青巌寺に流罪・蟄居の身となった。15日、秀次の許へ上使の福島正則・池田秀雄・福原長堯が訪れ、賜死の命令が下ったことを伝えた。同日、秀次は切腹し、小姓や家臣らが殉死した。8月2日、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女らおよそ29名が処刑された[57]。
従来、これは秀頼の誕生により秀次を疎ましく思った秀吉が、秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、これを除いたという説明がなされてきた[58][59]。
しかし秀吉と秀次の確執については、三鬼清一郎が唱えた統治権の対立など様々な説があり、謀反の嫌疑が事実であったのかどうかも含めて切腹の真相を記した文書が存在しないために未だに定かではない部分がある[注釈 30]。
史学者・渡辺世祐は謀反は秀次を陥れる口実であったとしている[60][注釈 31]。
また、天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら、「殺生関白」[注釈 32]と呼ばれるなど、秀次の素行に問題があったとする説は当時から存在した。太田牛一の『太閤様軍記の内』や『天正記』に見られる秀次の辻斬り乱行[61]、ジャン・クラッセ[注釈 33]の『日本西教史』に見られる「自ら罪人の首を撥ね、これを娯楽にした」[62]や妊婦の腹を裂いて中の子を見て楽しんだ等の悪行[59][注釈 34]や同様の『モンタヌス日本誌』[注釈 35][63]といった複数の記述が残っている。渡辺世祐は、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻(ぼうれい)にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている[64]。小和田哲男は、秀次の暴虐を強調することは秀吉の一族誅殺を正当化するという側面もあり[注釈 36]、多くの逸話は創作か誇張であるとして殺生関白の史実性を否定し[54]、宮本義己も疑問視したうえで、宮本は秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていた曲直瀬玄朔を自宅によびよせた一件が、関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している[65][66]。
谷口克広は秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘し、『太閤記』で罪状のように扱われていることには懐疑的である[67]。
サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑
文禄5年(1596年)10月に土佐国にスペイン船が漂着し、サン=フェリペ号事件が起きる。奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた[68]。同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。
翌慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。
慶長の役
文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は作戦目標を「全羅道を悉く成敗し、忠清道・京畿道にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令を発した[69]。
慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出後、日本軍は作戦目標通り南岸に撤収し文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受けたが、日本軍が明・朝鮮軍を大破する(第一次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した[70]。その後、第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いにおいても日本軍が防衛に成功した。
秀吉は慶長4年(1599年)にも再出兵による大規模な攻勢を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが[71]、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。秀吉の死後、五大老により、朝鮮半島在番の日本軍に帰国命令が発令された。
最期
慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営。各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。この頃、洛中の屋敷として御所近くに京都新城を構えたが、参内の宿所として使用したのみでついに移居することはなかった。5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。秀吉は他に、自身を八幡神として神格化することや、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した[72]。
自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。秀吉の病は、前年に秀吉の命令で甲斐善光寺から京都方広寺へ移されていた信濃善光寺の本尊である阿弥陀三尊の祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向けて京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。死因については諸説あり定かではない(後述#死因も参照)。
秀吉の死はしばらくの間は秘密とされることとなったが、情報は早くから民衆の間に広まっていたと推察され、後に豊国社の社僧となる神龍院梵舜は『梵舜日記』8月18日条で秀吉の死を記している。秀吉の遺骸はしばらく伏見城中に置かれることになった。9月7日には高野山の木食応其によって方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に寺の鎮守と称して、八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築され始めた(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。慶長4年(1599年)4月13日には伏見城から遺骸が運ばれ阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された(『義演准后日記』『戸田左門覚書』)[注釈 37]。
4月18日に遷宮の儀が行われ、その際に「豊国神社」と改称された。これに先立つ4月16日、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられた(『義演准后日記』)。これは日本の古名である「豊葦原瑞穂国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識した[74]ものとの見方がある[75]。4月19日には正一位の神階が与えられた。神として祀られたために葬儀は行われなかった[注釈 38][注釈 39]。
豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制が合意されている。また、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いなどで勝利していたが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び、全軍朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知るところとなった。朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらした。また、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し、後に滅亡する一因となった。日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。
年表
和暦 | 西暦[注釈 40] | 月日[注釈 40] | 数え年 | 内容 |
---|---|---|---|---|
天文6年 | 1537年 | 天文2月6日(1月1日説もあり)、西暦3月17日 | 1歳 | 誕生(天文5年説もあり) |
天文23年ごろ | 1554年-1555年ごろ | 18歳 | 織田信長に仕官 | |
永禄4年 | 1561年 | 8月 | 25歳 | 浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。 |
永禄11年 | 1568年 | 9月12日 | 32歳 | 観音寺城の戦い |
元亀元年 | 1570年 | 4月 | 34歳 | 金ヶ崎の戦い |
元亀3年 | 1572年 | 8月ごろ | 36歳 | 羽柴改姓 |
天正元年 | 1573年 | 8月8日-9月1日 | 37歳 | 小谷城の戦い |
天正3年 | 1575年 | 7月3日 | 39歳 | 筑前守 |
天正5年 | 1577年 | 9月23日 | 41歳 | 手取川の戦い |
10月5日-10日 | 信貴山城の戦い | |||
天正6年 | 1578年 | 3月29日 | 42歳 | 三木合戦開始(~天正8年1月17日) |
4月18日-7月3日 | 上月城の戦い | |||
天正10年 | 1582年 | 4月-6月4日 | 46歳 | 備中高松城の戦い |
6月2日 | 本能寺の変が起こる | |||
6月13日 | 山崎の戦い | |||
6月27日 | 清洲会議 | |||
天正11年 | 1583年 | 4月 | 47歳 | 賤ヶ岳の戦い |
11月 | 本拠を大坂城に移転。 | |||
天正12年 | 1584年 | 3月-11月 | 48歳 | 小牧・長久手の戦い |
10月3日 | 従五位下・左近衛衛少将[注釈 41] | |||
11月21日 | 従三位・権大納言 | |||
天正13年 | 1585年 | 3月-4月 | 49歳 | 紀州征伐 |
3月10日 | 正二位、内大臣宣下 | |||
6月-8月 | 四国攻め | |||
7月 | 近衛前久の猶子となる、藤原改姓 | |||
7月11日 | 従一位・関白宣下、内大臣如元 | |||
8月 | 富山の役 | |||
10月 | 惣無事令実施(九州地方) | |||
天正14年 | 1586年 | 7月 | 50歳 | 九州征伐開始(~天正15年4月) |
9月9日 | 賜豊臣氏[77] | |||
1587年 | 12月19日 | 内大臣辞職 | ||
12月25日 | 太政大臣兼帯 | |||
天正15年 | 1587年 | 5月9日 | 51歳 | 書状「かうらい国へ御人」 |
6月1日 | 書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」 | |||
6月19日 | バテレン追放令発布 | |||
1587年または1588年 | 12月 | 惣無事令実施(関東・奥羽地方) | ||
天正16年 | 1588年 | 7月8日 | 52歳 | 刀狩令発布。ほぼ同時に海賊停止令も発布。 |
8月12日 | 島津氏を介し琉球へ服属入貢要求 | |||
天正17年 | 1589年 | 5月27日 | 53歳 | 鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。 |
天正18年 | 1590年 | 2月-7月 | 54歳 | 小田原征伐 |
2月28日 | 琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求 | |||
7月 | 奥州仕置 | |||
11月 | 朝鮮へ征明を告げ入朝要求 | |||
天正19年 | 1591年 | 55歳 | 身分統制令制定 | |
3月3日 | 天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏 | |||
7月25日 | ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求 | |||
9月15日 | スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求 | |||
10月14日 | 島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求 | |||
1592年 | 12月 | 関白辞職、太政大臣如元 | ||
文禄元年 | 1592年 | 4月12日 | 56歳 | 朝鮮出兵開始(文禄の役) |
7月21日 | スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求 | |||
人掃令制定 | ||||
文禄2年 | 1593年 | 8月 | 57歳 | 本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。 |
11月5日 | 高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求 | |||
慶長元年 | 1596年 | 60歳 | サン=フェリペ号事件 | |
慶長2年 | 1597年 | 2月 | 61歳 | 再度の朝鮮出兵開始(慶長の役) |
7月27日 | スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ | |||
慶長3年 | 1598年 | 62歳 | 太政大臣辞職 | |
8月18日 | 伏見城で薨去。 | |||
大正4年 | 1915年 | 11月10日 | 贈正一位[78] |
人物
出身・家系
秀吉の父・弥右衛門は百姓だったというが、百姓 = 農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。太田道灌や北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている[注釈 42]。
『フロイス日本史』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また小説家の八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。小説家の井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている[注釈 43]。
秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが[注釈 44]、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。秀吉との間に子供が出来なかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供が出来た者が幾人かいる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説もある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった[79]。
秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に1男1女を授かっていたという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸、後に秀勝と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている(於次秀勝・小吉秀勝)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている[80]。ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・大政所のために寄進されたものであると説明している。しかし『多聞院日記』によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。
容姿
- 猿面
- 「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿から猿と呼ばれたことは有名である。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている[81]。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという[82]。
- 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」[注釈 45]に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある[83]。
- 禿げ鼠
- 「禿げ鼠」の呼び名は、信長がねねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)[84]。ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。
- 六本指
- 秀吉は指が1本多い多指症だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』[注釈 46])。多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い[注釈 47]。
- なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介した三上参次は、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。」[85]と記載している。井沢元彦は自著[86]の中で、『国祖遺言』の存在を初めて指摘したのは松田毅一[87]であると記載しているが、松田が指摘するよりも前に三上が指摘をしている。さらに三上が指摘をした翌年には幸田成友も秀吉の多指症について言及しており[88]、井沢は先行研究を把握していない。姜沆の『看羊録』にも秀吉の右手が六本指であったと記録されているが、この記録には秀吉が成長した時に自ら刀で指を切り落としたと記載されている[89][90]。服部英雄は『国祖遺言』を活字化しており、以下の通りである[91]。
大閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候、然時蒲生飛騨殿・肥前様・金森法印御三人しゆらくにて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御咄候、其時上様ほとの御成人か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ、左なく事ニ候、信長公大こう様ヲ異名に六ツめか、なとヽ、御意候由御物語共候、色々御物語然之事[92]
- その他
- 身長は小柄であったが、詳しい数字は不明。150cm以下から160cm余まで諸説ある。髭は薄かったため付け髭をしていたが、当時の武将は髭を蓄えるのが習慣であり、髭の薄い者は付け髭をすることもあった。
死因
様々な説が唱えられており、脳梅毒、大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)[93]、尿毒症説、脚気説[94]、腎虚[95]、感冒で亡くなった(そのため藤堂高虎と同様、桔梗湯を処方された[96])説などがある。50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている[97]。沈惟敬による毒殺説もある[注釈 48]。
逸話
人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった石川数正が出奔した際、自らの配下とした[98][99][100]。
賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『賤ヶ岳合戦記』)。また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという[要出典]。
小田原征伐の際、鎌倉の鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像[注釈 49]に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという[要出典]。
秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は、犯人を探索し7人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女63人を磔、最終的には130人に刑罰を下している(『鹿苑日録』[101])。人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀2年(1571年)に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正5年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年12月5日の羽柴秀吉書状)。
母・大政所への孝養で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している[102]。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒し、しばらくはまともに喋ることもできなかった[103]。大政所の三回忌では「なき人の形見の髪を手に触れ包むに余る涙悲しも」という句を詠んでいる[104]。
戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていたが[注釈 50]、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。男色傾向のなさを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたときも秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。
ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、
- 優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。
- 極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
- 抜け目なき策略家であった。
- 彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。
- ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。
などと記している。
上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った[注釈 51]。また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。
文化・芸事
人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。
文化的修養を積むことに努力し、古典文学を細川幽斎、連歌を里村紹巴、茶道を千利休、有識故実を今出川晴季、禅を西笑承兌、儒学を大村由己、能楽を金春太夫安照に学んだ[105]。
能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。和歌もよく詠んだ[注釈 52]。茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田重然でもなく、秀吉であるとする評価もある[106]。一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。呂宋助左衛門が献上し、高額な茶器(茶入れ)として珍重されたルソン壷が、現地では便器として使われていると知り激怒したという逸話もある。
能筆家であった。北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。
囲碁は、織田信長から名人という称号を許された日海(後の本因坊算砂)に指導を受けており[注釈 53]、伊達政宗の家臣・鬼庭綱元との賭け碁や、龍造寺政家をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、かなり強かったらしい[要出典]。
本能寺の変の黒幕説
本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説もある。その根拠は、秀吉の信長に対する不要な援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴え援軍を要請。ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく[注釈 54]、救援は不要であった。信長は三職推任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こしたが、軍勢を集める理由が問題であった。ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。光秀が近衛前久と内通していた説があるように、秀吉も大納言の勧修寺晴豊らと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。
また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ、変を知らせる使者は本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、変後の毛利方との迅速な講和は事前に信長が討たれることを見越して秀吉が小早川隆景・安国寺恵瓊などへ根回しを行っていた結果なのか、など疑惑が持たれている。
上記の説についての反論には以下のものがある。
- 『信長公記』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。
『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。
秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。 - 本能寺の変直後の6月3日には、江北周辺の武田元明、京極高次らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣である斎藤利三が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『言経卿記』『豊鑑』)。このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。
もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。
当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。 - 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。
- 事前の用意については、中国大返しは信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。実際には1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』「惟任謀叛記」)。
- 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対[注釈 55]によって取り止めになっている。一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。
また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。更に秀吉の撤退、毛利の追撃、いずれにしても、両勢力の境目にあり、備前・美作を支配する宇喜多氏の動向が不透明であったことも考慮する必要がある。
なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「本能寺の変黒幕説」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。
政策
朝臣体制
秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用した、というのが定説である。
秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。織田家との主従関係はこれによって逆転している。また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないということを理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りにも利用している。これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威を様々に利用したことや、義昭と対立した際に朝廷と接近したことと共通するものである。
さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。
このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことが様々な史料から読み取れる。秀吉が事実上の権力者として政治を行っていることから、摂関政治の一種とも解釈されることがある。
天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だったが、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。
また秀吉は、誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王を猶子とし、親王宣下を受けさせていた[注釈 56]。智仁親王が天皇に即位すれば、秀吉は天皇家の外戚として権力を振るうことも可能なはずであった。しかし智仁親王の即位前に秀吉は没してしまい、その後、智仁親王の即位は徳川家康によって阻止された。
国内統治システム
秀吉は惣無事令を出して大名間における私闘を禁じた。また、武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させることを全国単位で行う刀狩令、私的な武力行使を制御することを目的とした喧嘩停止令、海賊行為に対しても海賊停止令を発布し、国内における私的な武力抗争を抑制した。これらをまとめて豊臣平和令と呼ぶ場合がある。また、これらの私的な武力抗争の抑止は、あくまで関白として天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を指令するという立場を掲げて行われた。
各地方に対しては天下人として尺の統一を行った上で全国で検地が行われた。これは太閤検地と呼ばれている。同時に日本全国の税制を石高制に統一し、国家予算の算定と税制が定められた。また、楽市楽座等[注釈 57]、関所の廃止[注釈 58]等も継続して行い、調整を加えつつ全国的に広げていった。職業軍人と農民を分ける兵農分離、百姓の逃散禁止、朱印船貿易、貨幣鋳造なども進めた。
豊臣政権下では一般に、年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていたといわれる。これは善政で知られた後北条氏の四公六民(収穫の5分の2が年貢)[109]と比べて重いように思われるが、二公一民というのはあくまでも年貢納入をめぐる紛争の解決の際の損免規定の設定であり、年貢免率決定権は個々の領主が握って自主的に決めており、一律に定められていたわけではない[110]。
秀吉の政策は江戸幕府に継承されていったため、江戸時代の基礎を築いたとも言われるが、「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と言う研究者もいれば(脇田修・佐々木潤之介)、これに否定的な研究者もいる[111][112]。鎌田道隆は織田政権と豊臣政権の間、あるいは豊臣政権と徳川政権の間に中世と近世の境があるのではなく、豊臣政権の途中で中世から近世に移行したとしている[113]。ちなみに東京大学史料編纂所では、慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立から明治4年(1871年)の廃藩置県までを近世に分類している[注釈 59]。
宗教政策
仏教勢力に対しては、木食応其を仲介役として高野山を降伏させたり、三井寺を闕所にしたり、根来寺を焼き討ちするなど、信長時代に引き続き武力によって統制した。一方で寺社造営を得意とする木食応其に命じて、京都に大仏を建立したり本願寺を再建したりもしている。ルイス・フロイスは伴天連追放令後の状況にあって「(秀吉は)偶像を以前にも増して悪しざまに扱い、仏僧たちを我ら以上に虐待している」と書いている。
キリシタンに対しては、当初は好意的であった。しかし宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していたことなどを理由に、天正15年(1587年)に伴天連追放令(バテレン追放令)を出した。ただしこの時の布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。秀吉が決定的に態度を硬化させるのは、慶長元年(1596年)に起きたサン=フェリペ号事件からのことである。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は宣教師の行いを通じてスペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していたということが強調されている。イエズス会宣教師による日本征服計画があったのは確実であるが[注釈 60]、スペインやポルトガル本国が宣教師たちの提案に賛同したかどうかは不明である。
自身の神格化
織田信長は自らを神として信仰させようとしたが(異説あり)、秀吉もまた自らを神として祀らせようとした。信長は記録上それを行ったとされる時期のすぐ後に死亡してしまったため、詳しいことはあまり分かっていないが、秀吉は信長よりも具体的な記録が残っている。
秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守として新たな八幡として自らを祀るよう遺言した[72]。これ以前に秀吉は、源頼朝の富士の巻狩りに倣い、尾張で壮大な巻狩りを行っており[79]、ルイス・フロイスはこの巻狩りの目的の1つは「頼朝の巻狩りへの人々の回想を弱めしめることであった」と推測している。しかし秀吉の死後、八幡として祀られるという希望はかなえられず、「豊国大明神」という神号で祀られ、豊国社も別に神宮寺を置くこととなった。
元和元年(1615年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と仏式の戒名を与えられた。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる[115]。)に遷された。慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇を再興することが命じられた。明治8年(1875年)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に豊国神社が再建された。
外交政策
秀吉は大陸侵攻(唐入り)の準備をしつつ、周辺諸国やスペイン・ポルトガルの植民地に対し服属入貢を要求した。
秀吉における海外進出の構想は天正15年(1587年)の九州遠征の時期に行われたとみられ、5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している[116]。
同年6月1日付で顕如に宛てた朱印状のなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している(本願寺文書)。「我朝之覚」とは先例のことを指しており、具体的には神功皇后の三韓征伐の際の三韓服従の誓約、あるいは天平勝宝2年(752年)の孝謙天皇による新羅国王への入朝命令などと考えられている。この先例に倣って[注釈 61]高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した[116]。
翌天正16年(1588年)には島津氏を介して琉球王国へ服属入貢を要求し、以後複数回要求を繰り返す。天正19年(1591年)7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、翌天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした[117]。
秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドのこと)征服のために寧波に移るとしていた[注釈 62][注釈 63]。
文禄2年(1593年)には高山国[注釈 64]へ服属入貢を要求した[118]。
人事政策
- 人事においては、石田三成や大谷吉継らを文治派、加藤清正や福島正則らを武断派として用いた。秀吉としては個人の能力に見合った仕事を与えることで両派を形成させたと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにも繋がった。
- 織田信長が重臣の林秀貞や佐久間信盛らを追放したことは有名だが、秀吉も神子田正治や尾藤知宣らを追放している。これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた家臣であり、卑賤の身から出世したため譜代の家臣というものが存在しなかった豊臣家にとって、その代わりとなる人物だったため、その追放は豊臣家の衰退に繋がったと言っても過言ではない。
- 天下統一後の政権の中に、秀吉に縁の深い家臣団という一群と、外様大名という一群の二つの勢力が存在し、死後の政権争いの元となっている。
蒲生秀行・小早川秀秋ら諸大名を大した罪でもないのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)に所属させる一因を成した。- 土木事業や溜池築堤を得意とする木食応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備にあたっていた。豊臣政権の行政機構の中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた[119]。
- 多くの家臣たちに豊臣の本姓、羽柴の氏を与えた。
後世の評価
- 江戸時代においては、公には秀吉の神格化は否定されていたが、民間では豊国大明神を起請文の対象とするなど、一種の秀吉信仰も残存していた[120]。
- 江戸時代初期の『太閤記』は広く読まれ、江戸時代後期に出現した読本『絵本太閤記』は庶民の間で大流行した。これを翻案した浄瑠璃・歌舞伎の『絵本太功記』は人気演目の一つであった。ちなみに『絵本太閤記』は幕府から何度か絶版を命じられている。
- 慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇が大阪に行幸した際には、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお彼を寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛する沙汰書を下している[120]。また大正4年(1915年)には秀吉に正一位の贈位が行われたが、この際には国家の平定、対外的な国威発揚、聚楽第行幸の際などの皇室への尊崇などが評価されている[121]。
- 近現代にも秀吉を題材とした小説・映画などは数多く、それらフィクションで描かれる秀吉像は、武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされることが多い。
朝鮮半島・中国大陸では侵略者として否定的な印象を持たれている。当時の中国や朝鮮の史書では、秀吉が中国出身者だったという説が書かれたものがいくつかあるが、これは日本に滞在していた中国人らが広めたものと見られている[122]。
系譜
略系図
木下弥右衛門 | 大政所 | 竹阿弥 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三好吉房 | 日秀尼 | 豊臣秀長 | 朝日姫 | 徳川家康 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊臣秀次 | 北政所 | 徳川秀忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南殿 | 豊臣秀吉 | 淀殿 | 崇源院 | 千姫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
羽柴秀勝 | 女児 | 豊臣鶴松 | 和期の方 | 豊臣秀頼 | 小石の方 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊臣国松 | 天秀尼 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
実線は親子関係 点線は婚姻関係
妻子
- 正室:北政所(杉原定利の娘・寧々)
- 側室:南殿(一説に山名禅高の娘というが素性不明) または 於葉の方(浅井家祐筆・石田長楽庵の娘)
- 長男:羽柴秀勝(石松丸)
- 女(名前不詳)
- 側室:淀殿(浅井長政の娘・茶々)
- 二男:豊臣鶴松
- 三男:豊臣秀頼
- 二男:豊臣鶴松
- 側室:南の局(山名豊国の娘)
- 側室:松の丸殿(京極高吉の娘・竜子)
- 側室:加賀殿(前田利家娘・摩阿)
- 側室:甲斐姫(成田氏長の娘)
- 側室:三の丸殿(蒲生氏郷の養女、織田信長の娘)
- 側室:三条殿(蒲生賢秀の娘・とら)
- 側室:姫路殿(織田信包の娘)
- 側室:広沢局(名護屋経勝の娘)
- 側室:月桂院(足利頼純の娘・嶋子)
- 側室:香の前(高田次郎右衛門の娘・種。後に伊達政宗・茂庭綱元の側室となる)
- 側室:円融院(三浦能登守の娘・おふく(法鮮尼)。宇喜多秀家の母)
『絵本太閤記』・『新書太閤記』によると、秀吉は故郷の尾張を離れた後、遠江頭陀寺城主・松下之綱に仕えた。之綱は秀吉を気に入り、家臣の娘で美人のおきくという女性を選び、結婚させた。しかし、おきくは秀吉を嫌い、秀吉が尾張へ向かう際に離縁したといわれている。そのため、秀吉は高台院とは2度目の結婚であり、高台院の生母・朝日殿が結婚に反対した理由のひとつともいわれている。
養子
羽柴秀勝(織田信長の四男・於次)
豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男。羽柴秀勝を継ぐ)
豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)
池田輝政(池田恒興の次男)[123][124]
結城秀康(徳川家康の二男)
小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥)
養女
豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室)
摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室)
菊姫(前田利家の庶女。早世)
小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世)
竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室)- 大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室)
茶々(浅井長政の娘。豊臣秀吉側室)
初(浅井長政の娘。京極高次正室)
江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室)
糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室)
宇喜多直家の娘(吉川広家正室)
猶子
宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿であり婿養子でもある)
智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設)
伊達秀宗(伊達政宗の庶子)
近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御)
家臣
譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を新たに得た。
織田信長に仕えた頃からの陪臣として浅野長政、堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏、竹中重治、樋口直房、脇坂安治、片桐且元、石田三成、黒田孝高、増田長盛などがおり、福島正則、加藤清正は幼少の頃から自身で養育する。親類縁者は当然のように総動員で取り立てられたが、農民から大名となり、あげくに追放された姉婿・三好吉房だけでなく、その子・豊臣秀次、やはり甥の小早川秀秋ら、環境の激変する中で不幸な生涯を終えた者が多い。
賤ヶ岳の戦いでは、抜群の功績を上げた正則、清正に加え加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元らが賤ヶ岳の七本槍として数えられる。ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。
山鹿素行の『武家事紀』にて初期の功臣として、宮田光次、神子田正治、尾藤知宣、戸田勝隆の4人を列挙している。このうち、神子田正治・尾藤知宣は秀吉に暴言を吐いたことで粛清された。
信長の後継者の座を得ると、その重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、彼らとは友人としての関係を保ったとも考えられている。
晩年には豊臣政権の職制として五大老、三中老、五奉行、十人衆を設けるが、譜代の家臣は武断派と文治派に分かれ死後関ヶ原の戦いで戦った。
- 五大老
徳川家康(筆頭)、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景、上杉景勝(隆景死後)、前田利長(利家死後)- 三中老
生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴
- 五奉行
浅野長政(筆頭)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、(宮部継潤、富田一白)- 十人衆
富田一白、寺西正勝、毛利吉成、堀田一継、佐々行政、石田正澄、片桐貞隆、石川光元、山中長俊、木下延重
参謀(両兵衛)
竹中重治、黒田孝高
- 一門衆
豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保、小早川秀秋、宇喜多秀家、木下家定、杉原家次、浅野長政、木下勝俊、青木一矩、杉原長房
- 賤ヶ岳の七本槍
福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元、(桜井家一、石川一光)- 七将
- 福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政、(藤堂高虎、蜂須賀家政)
- 与力衆
宮部継潤、一柳直末、田中吉政、木村定重、小出吉政、亀井茲矩、谷衛友、寺沢広高、新庄直頼、斎村政広、別所重宗
- 信長親族
織田秀信、織田信包、織田長益、織田信秀、織田信高
- 信長旧臣
丹羽長秀、蜂須賀正勝、前野長康、蒲生氏郷、堀秀政、細川藤孝、細川忠興、蜂屋頼隆、京極高次、長谷川秀一、長谷川与次、日根野弘就、日根野盛就、長谷川宗仁、矢部家定、建部寿徳、稲葉一鉄、市橋長利、伊東長久、九鬼嘉隆、古田重然、堀内氏善、丸毛兼利、毛利秀頼、猪子一時
- 黄母衣衆
青木一重、伊木遠雄、石尾治一、伊東長実、井上道勝、小野木公郷、郡宗保、津田信任、戸田勝隆、友松盛保、中島氏種、中西守之、長原雲沢軒、野々村雅春、蜂須賀家政、服部一忠、速水守久、尾藤知宣、神子田正治、三好房一、毛利吉成、森可政、分部光嘉、一柳直末
- 七手組
- 速水守久、青木一重、伊東長実、堀田盛重(盛高)、中島氏種、真野助宗、野々村雅春、真野頼包(助宗死後)、郡宗保
- その他子飼い・馬廻衆
小西行長、大谷吉継、仙石秀久、山内一豊、松浦秀任
史跡等
墓所・霊廟・神社
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{text-align:left;background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;text-align:center}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{text-align:center}}
死後、高野山の木食応其が法要を執り行い、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られて、豊国大明神として豊国神社に祀られた。しかし大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により方広寺の大仏の鎮守とするために豊国神社は廃絶され、廟も壊され、大仏殿裏手に遷されている。この時、神龍院梵舜の嘆願により、梵舜の神宮寺や内苑(本殿など)の建物は残された[注釈 65]。なお、建造物の一部は片桐且元らによって宝厳寺や都久夫須麻神社に移築されたともされる。その後、残った建物も妙法院に移されることになり、以後は建物は荒廃していったとされる。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社再建の機運が高まり、侯爵・黒田長成が音頭を取り阿弥陀ヶ峯に墓標が建立され豊国神社は再興された。
秀吉が主祭神として祀られている神社は、京都市以外には大阪、金沢、長浜、名古屋、小松島、福岡等にある。なお高野山奥の院に豊臣家墓所があるのは有名であるが、現存する墓碑の中に秀吉のものはない。その理由は不明[125]。
資料館
- 名古屋市秀吉清正記念館
- 佐賀県立名護屋城博物館
豊臣秀吉を題材とする作品
- 絵画
- 豊臣期大阪図屏風[126]
- 小説
- 『新書太閤記』吉川英治
- 『異本太閤記』山岡荘八
- 『新太閤記』海音寺潮五郎
- 『新史太閤記』司馬遼太郎
- 『妖説太閤記』山田風太郎
- 『夢のまた夢』津本陽
- 『秀吉-夢を超えた男』堺屋太一
- 『秀吉と利休』野上彌生子
- 『秀吉の枷』加藤廣
- 漫画
- 『豊臣秀吉』 横山光輝
- 『学習漫画 日本の伝記 豊臣秀吉』 久松文雄
- 『黄金太閤記』 小島剛夕(井沢元彦原作)
- 『豊臣秀吉』 樋口清之
- 『豊臣秀吉』 さいとう・たかを
- 『豊臣秀吉』 土山しげる
- 『豊臣秀吉勇将録 戦国武将列伝』
- 『戦国人物伝 豊臣秀吉』 瀧玲子(すぎたとおる原作)
- 映画
- 『絵本太閤記(太功記十段目)』(1908年、M パテー商会、撮影:男澤粛)
- 『豊太閤栄華物語』(1918年、演:尾上松之助)
- 『出世大閤日吉丸』(1919年、演:尾上松之助)
- 『木下藤吉郎』(1921年、演:澤村四郎五郎)
- 『太閤記』(1922年、演:尾上松之助)
- 『大功記十段目』(1922年、演:嵐璃徳)
- 『大功記十段目』(1923年、演:澤村四郎五郎)
- 『木下藤吉郎』(1924年、演:澤村四郎五郎)
- 『豆本太閤記』(1926年、演:松尾文人)
- 『羽柴筑後守』(1926年、演:片岡左衛門)
- 『木下藤吉郎』(1928年、演:実川延松)
- 『出世筑前守』(1928年、演:綾小路絃三郎)
- 『豊太閤』(1929年、演:河津清三郎)
- 『英傑秀吉』(1929年、演:河部五郎)
- 『太閤記 藤吉郎走卒の巻』(1935年、演:尾上栄五郎)
- 『太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻』(1936年、演:尾上栄五郎)
- 『怪童日吉丸』(1937年、演:井上琢也)
- 『出世太閤記』(1938年、演:嵐寛寿郎)
- 『祝言太閤記』(1940年、演:藤井貢)
- 『夫婦太閤記』(1940年、演:藤井貢)
- 『花婿太閤記』(1945年、演:嵐寛寿郎)
- 『凸凹太閤記』(1953年、大映、監督:加戸敏、演:森繁久彌)
- 『新書太閤記 流転日吉丸』(1953年、演:東宮秀樹→市川右太衛門)
- 『新書太閤記 急襲桶狭間』(1953年、演:市川右太衛門)
- 『俺は藤吉郎』(1955年、演:林成年)
- 『太閤記』(1958年、演:高田浩吉)
- 『ホラ吹き太閤記』(1964年、東宝、監督:古沢憲吾、演:植木等)
- 『清須会議』(2013年、東宝、監督:三谷幸喜、演:大泉洋)
- テレビドラマ
以下は豊臣秀吉が主人公の作品。重要な人物なので脇役や準主役となると作品も演じた役者も膨大な数にのぼる。
- 『太閤記』(1957年、日本テレビ、演:大川太郎)
- 『新書太閤記』(1959年、毎日放送、演:東宮秀樹→宮崎照男)
- 『珍版太閤記』(1960年、KRT、演:矢代和雄)
- 『あまから太閤記』(1967年、毎日放送、演:白木みのる)
- 『太閤記』(1965年、NHK大河ドラマ、演:石川秀樹[要曖昧さ回避]→緒形拳)
- 『青春太閤記 いまにみておれ!』(1970年、日本テレビ、演:なべおさみ)
- 『新書太閤記』(1973年、テレビ朝日、演:山口崇)
- 『太閤記』(1987年、TBS大型時代劇スペシャル、演:柴田恭兵)
- 『天下を獲った男 豊臣秀吉』(1993年、TBS大型時代劇スペシャル、演:柳葉敏郎)
- 『豊臣秀吉 天下を獲る!』(1995年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:中村勘九郎)
- 『秀吉』(1996年、NHK大河ドラマ、演:竹中直人)
- 『太閤記 サルと呼ばれた男』(2003年、フジテレビ、演:草彅剛)
- 『太閤記〜天下を獲った男・秀吉』(2006年、テレビ朝日、演:中村橋之助)
- ボードゲーム
- 『秀吉軍記』(ツクダホビー)
- コンピューターゲーム
- 『太閤立志伝』シリーズ(コーエー)
- 歌謡曲
- 俺は藤吉郎(三波春夫)
脚注
注釈
^ 生年は天文5年1月1日(1536年2月2日)とも伝わる。
^ 『江源武鑑』によると六角義秀の偏諱で元吉から秀吉に改めたとあるが、『江源武鑑』は偽書とするのが一般的であり信憑性は薄い。
^ 木綿のように使い勝手が良く、くたびれにくい、という意味。
^ 秀吉の馬印を「千成瓢箪」とするのは誤伝。
^ 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島に鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。
^ 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。
^ この説を支持している代表的な人物として、歴史学者の石井進が挙げられる。また小和田哲男は、秀吉本人ではなく、その先祖や周囲の人々が非農業民だったのではないかとしている。
^ 日本家紋研究会の高澤等は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『歴史読本』に寄稿している。
^ この説を唱えている代表的な人物として、作家の八切止夫や小林久三が挙げられる。歴史小説家加藤廣も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。
^ 『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下之綱が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。
^ 『太閤素性記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする『甫庵太閤記』や『真書太閤記』などの説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。
^ 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室・吉乃の紹介(『武功夜話』)など諸説あり、真相は不明である。
^ 『絵本太閤記』が初出。
^ 『森家先代実録』(発行:津山市教育委員会)によると、名古屋因幡守(名古屋山三郎の父)がねねの父を説得し、信長にも秀吉のことを執り成したという。因幡守の妻・養雲院がねねと接点があったためだという。そのため因幡守の死後、養雲院は秀吉から知行をもらい京都四条の屋敷で栄耀に暮らしたという。因幡守の娘(お岩)は弟・秀長の嫡男小一郎の正室となっている(その後、小一郎は夭折した)。[信頼性要検証]
^ 一夜城の逸話はよく知られたものであるが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、江戸時代の創作であるとする説が強い。
^ ともに川並衆とも言われるが、「川並衆」の記述がある文書は『武功夜話』のみの為、呼び名に関して創作説がある。
^ 従来は『信長公記』や『三河物語』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが、近年は当時の序列から考えて池田勝正が率いたのではないかともされる。
^ 桑田忠親は、羽柴姓への改名は天正元年7月8日から9月7日の間としている[17]。
^ 反対した理由の一つに秀信の母が武田信玄の五女・松姫(信松尼)説の存在がある(『西山家文言覚書秘伝録』)。また、勝家が三法師の後継に反対したという話は『川角太閤記』の創作によるもので、事実ではないとする説もある[20]。
^ 当時としては他に類を見ない巨大な要塞だったが、大坂の陣で焼失した。現在の大阪城天守閣は、この秀吉の大坂城と後年江戸幕府によって再建された大坂城の姿を折衷したもので、昭和6年(1931年)に復元した鉄筋コンクリート製の「復興天守」である。
^ のちに昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給されたことになっている。天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。
^ 『多聞院日記』にある、天正12年10月頃朝廷から将軍になるよう勧められたが断ったという記述による[30][31]。
^ 家康は翌年7月にも真田領への侵攻を計画するが、秀吉が諫めたことで未遂に終わっている[33]
^ これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。詳細は「豊臣氏」を参照。
^ 『公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』には後陽成天皇の即位式当日、式に先立って任官が行われたと記されており、『公卿補任』はその事実を憚ったものと考えられている。[37]
^ 秀吉は征夷大将軍に就いて幕府を開くために足利義昭に自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むに至ったというのは今日では事実ではないと考えられている。林羅山の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。これが後に武内確斎の『絵本太閤記』に採られて通説となった。
^ このとき、井伊直政・榊原康政・大久保忠隣など多くの徳川家臣が豊臣姓で叙位任官されている[38]。
^ 秀吉の蔵入地222万石というのは多くの直臣に所領を分け与えた残りであり、一方の家康の250万石は直臣に分け与えた所領もあわせての数字であり、純粋な石高で家康が秀吉を上回る訳ではない。家康自身の蔵入地は約100万石であるので秀吉の方が大きい。
^ 異説では、宮部継潤・前田玄以・中村一氏・堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の5名。
^ 高野山に秀次が送られた理由は「不慮之御覚悟」とあるのみで内容は明記されていない。断罪した側がその口実すら記さないという状態で、その他の文書でもぼかした表現のものしか存在しない。秀次が謀反を起こしたというのは『御湯殿上日記』や『伊達文書』という一次史料ではあるものの豊臣家の外の記録が根拠とされている。
^ 事件後に使者となった奉行衆は加増されており、石田三成らは秀次の助命に動いたという説がある一方で、その逆に秀吉の意を汲んで秀次を亡き者にすべく謀反を捏造したという陰謀説もあり、相反する評価がある。
^ 摂政関白をもじったもの。太田牛一『大かうさまくんきのうち』で初めて登場。正親町上皇が崩御の後に秀次は喪に服さずに鹿狩りをしたということから「院の御所に たむけのための 狩なれば これをせつせう 関白といふ」と落首が詠まれたという逸話から来ているが、この句自体は後世の作とされ、また鹿狩りをしたのは実際には秀次ではなく秀吉であったとする説もある。太田牛一の書いたものが小瀬甫庵の『太閤記』など他のほぼ全ての出典元となっているが、秀次と最も親しかった公家山科言経の日記に符合する記述がないことなどが指摘され、後述する史家はそもそも殺生関白と当時の人々に呼ばれていたのかに疑念を呈しており、議論がある。
^ フランス生まれのイエズス会宣教師。秀次の逸話は実際に秀次と親しくしていたブロエー師の記述から得た話としている。
^ 同書には、その後、秀次は悪行を止めたが、誓紙を交わすなどして味方を集めるなどして具体的に謀反を計画したと疑われ、最終的には謀反のかどで処罰されたという話になっている。
^ 著者のアルノルドゥス・モンタヌス(宣教師兼歴史学者)はクラッセよりもさらに7年後に生まれた人物で、およそ1世紀後に文書記録を元にしてこの本をまとめている。
^ 江戸時代前期の歴史学は儒学者を中心として行われ、儒学思想に基づいた解釈が強い影響を与えた。
^ 現在、阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建っているが、この工事の時(明治30年)、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された[73]。
^ 秀吉の死の直後の8月22日に方広寺大仏境内三十三間堂を会場として大規模な千僧供養が実施されている。参会者にも知らされなかったが、これが実質的に仏式による供養(葬儀)であったと考えられる。事情を察してか前日には多くの民衆が大仏に集まったという。(『義演准后日記』)
^ 架空の葬儀として描かれた『豊太閤御葬式之図』が残っている[76]。
- ^ ab1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
^ これと次の任官は、『公卿補任』では天正10,11年のこととされているが、事実ではなく秀吉の急激な昇進を辻褄合わせするために書かれたものだと考えられている朝尾直弘『大系日本の歴史8天下一統』小学館ライブラリー、pp.199-201
^ 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例だった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。
^ 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。
^ 『フロイス日本史』に「300名の側室を抱えていた」と記録がある。だが、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字とするのが自然である。また、大名から取った人質を愛人として囲っていると宣教師が誤認した可能性もある。
^ 「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉。
^ 前田利家の回想録
^ 漫画『センゴク』『シグルイ』に登場する秀吉は六指である。
^ 朝鮮の古文書『燃黎室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその3年後である。
^ 「伝源頼朝坐像」(重要文化財)、現在は東京国立博物館所蔵。「e国宝」に画像と解説あり。
^ 織田信長と長谷川秀一、武田信玄と小姓・春日源助。
^ 『信長公記』。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。
^ 秀吉の和歌は、八条宮智仁親王によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。
^ 増川宏一は算砂が「信長に名人とされたこと」「秀吉に仕えたこと」、いずれも否定している。
^ 相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由による。
^ 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(谷口克広説など)。
^ 織田信長も誠仁親王の第五王子の興意法親王を猶子としていた。
^ 豊臣政権は座の撤廃も積極的に行った。大村由己の『秀吉事記』の「座を破らる」という記述から、研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者もいるが、実際にはこの記述がある1585年には秀吉はまだ前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書も発給していた。[107]
^ 秀吉は織田政権下ではまだ存在していた七口の関を廃止しているが、一方で徳川家康の領地の関所は廃止された形跡がなく、江戸時代までそのまま存続していた。[108]
^ 東京大学史料編纂所HP「近世史料部」参照。
^ アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している[114]。
^ 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また鎌倉時代の『曽我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。
^ 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による[117]
^ さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。
^ 当時、台湾に存在するとされた国
^ 外苑部分は破却された。
出典
^ “特別展 三英傑と名古屋”. 名古屋市博物館. 2015年11月17日閲覧。
^ 『信長・秀吉・家康―天下統一と戦国の三英傑』 学研〈歴史群像シリーズ〉、2006年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
ISBN 978-4-056-04248-1。
^ 渡辺世祐 1919, p. 165.
- ^ abcd小和田 1985, pp. 42-44
^ 渡辺世祐 1919, p. 18-19.
- ^ abcd池上, pp. 147-149
^ 渡辺世祐 1919, p. 20.
^ 小和田 1985, pp. 51-52.
- ^ ab渡辺世祐 1919, p. 11-12.
^ 小和田 1985, pp. 50-52.
^ 田端, p. 11.
^ 田端, p. 9.
^ 桑田忠親 『女性の名書簡』 東京堂出版、1993年。
^ 『坪内系譜』
^ 小和田 1985, p. 103.
^ 渡辺世祐 『豊太閤の私的生活』 講談社、1980年、47頁。
- ^ ab桑田忠親 『豊臣秀吉研究』 角川書店、1975年、148頁。
^ 桑田忠親『太閤の手紙』31頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状
^ 太田牛一; 中川太古 『現代語訳 信長公記』 (Kindle版) 中経出版〈新人物文庫〉、2013年、182頁。 ASIN B00G6E8E7A
^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp.32-39.)
^ 村川 2000, p. 11〜[要ページ番号]
- ^ ab尾下成敏「清洲会議後の政治過程-豊臣政権の始期をめぐって-」、『愛知県史研究』10号、2006年。
^ 谷口央 2011, pp. 15-18.
^ 谷口央 2011, p. 7.
^ 松下浩 『織田信長 その虚像と実像』 サンライズ出版、2014年、116頁。
^ 四宮美帆子、「豊臣政権下の鷹図」、早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊, 日本語日本文学 演劇映像学 美術史学 表象・メディア論 現代文芸 58, 一七七-一九三、早稲田大学大学院文学研究科、2013年、p.180-181,
hdl:2065/39264。
^ 大野充彦、「前田利家文書の基礎的研究」、田中喜男編 『日本海地域史研究』 文献出版、1982年。 /所収:大西泰正編 『前田利家・利長』 戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第三巻〉、2016年、125頁。ISBN 978-4-86403-207-0。
^ 口宣案(足守木下家文書)(山陽新聞社 1982, p. 13)[写真掲載あり]
^ 堀新 「信長・秀吉の国家構想と天皇」『天下統一と朝鮮侵略』 吉川弘文館〈日本の時代史 (13)〉、2003年。
ISBN 4642008136。
^ 堀新、「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか?」、山本博文・堀新・曽根勇二編 『偽りの秀吉像を打ち壊す』 柏書房、2013年。
^ 鈴木眞哉 『NHK歴史番組を斬る!』〈洋泉社歴史新書〉、2012年、154-155頁。
^ 宣旨(足守木下家文書)(山陽新聞社 1982, p. 18)[写真掲載あり]
- ^ ab富澤、佐藤, p. 37.
^ 遠藤 2015, p. 262-263.
^ “秀吉、重臣にくどくど 天下統一前などの書状33通見つかる”. 東京新聞. 2016年2月6日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年2月6日閲覧。
^ “秀吉、信長を呼び捨て。公開の書状で権威誇る。”. 神戸新聞NEXT. 2016年1月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月26日閲覧。
^ 橋本政宣『近世公家社会の研究』
^ 村川 2000[要ページ番号]
^ 片山正彦 「豊臣政権の統一過程における家康の位置付け」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』 思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年、112-143頁。
ISBN 978-4-7842-1875-2。
^ 遠藤 2015, p. 168.
^ 村川 2000, p. 49-60.
- ^ ab白峰旬「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠に関するイエズス会宣教師の認識について」、『別府大学大学院紀要』17号、2015年、 8頁。
^ 池享編 『天下統一と朝鮮侵略』 吉川弘文館〈日本の時代史 13〉、2003年、65頁。
^ 渡邊大門編 『真実の戦国時代』 柏書房、2015年、37頁。
^ 黒田基樹 「小田原城開城へ」『小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館〈敗者の日本史 10〉、2013年1月、197-215頁。
ISBN 978-4-642-06456-9。
^ 遠藤 2015, p. 55.
^ 長谷川 2008, p. 11.
^ 長谷川 2008, p. 12.
^ 長谷川 2008, p. 22.
^ 長谷川 2008, p. 25.
^ 新井隆一 「本州アイヌと津軽エゾ ―九戸城の戦いの「夷人」から遡って―」 『弘前大学國史研究』137 弘前大学國史研究会、2014年、p.2,
hdl:10129/6311。
^ 長谷川 2008, p. 24.
^ 渡辺 1919, pp. 94-95.
- ^ abc小和田哲男 『豊臣秀次:「殺生関白」の悲劇』〈PHP新書〉、2002年。ISBN 456962104X。
^
徳富 1935, pp. 205-208; 渡辺 1919, pp. 95-96.
^ 徳富 1935, p. 215.
^ 徳富 1935, pp. 212-214.
^ 西村真次 国立国会図書館デジタルコレクション 『安土桃山時代』 早稲田大学出版部〈国民の日本史;第8編〉、1922年、pp.588-591頁。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969928/330 国立国会図書館デジタルコレクション。
- ^ abクラツセ 1925, pp.574-587
^ 渡辺 1919, pp. 113-115.
^ 徳富 1935, pp. 244-245.
^ 徳富 1935, p. 223.
^ アルヌルヅス・モンタヌス 国立国会図書館デジタルコレクション 『モンタヌス日本誌』 丙午出版社、1925年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020052/155 国立国会図書館デジタルコレクション。
^ 渡辺 1919, pp. 106-108.
^ 宮本義己「豊臣政権の番医―秀次事件における番医の連座とその動向―」、『国史学』133号、1987年。
^ 宮本義己「豊臣政権における太閤と関白―豊臣秀次事件の真因をめぐって―」、『國學院雑誌』89巻11号、1988年。
^ 谷口.
^ 松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、昭和47年、227-228頁
^ 『立花家文書』他「慶長二年二月二十一日付朱印状」
^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
^ 『立花家文書』「慶長三年三月十三日付朱印状」、『鍋島家文書』「慶長三年五月二十二日付朱印状」等
- ^ abフロイス5, 付録.
^ 湯本文彦「豊太閤改葬始末」『史学雑誌』17-1、1909年所収
^ 吉田神主二位兼見承號豊國大明神與。日本之總名豊葦原中津國ト云ヘル故也。続群書類従第三輯上 神祇部p. 225『豊國大明神祭禮記』
^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』
^ 豊太閤御葬式之図
^ 『押小路文書』
^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
- ^ abフロイス5, 第34章.
^ 近江坂田郡誌
^ フロイス4, 第16章.
^ フロイス4, 第14章.
^ 藤田達生
^ “「徳川美術館」 織田信長書状 おね宛て(個人蔵) : 平成19年度企画展示 天下取りへの道 戦国の武将たち”. 2011年6月13日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年1月7日閲覧。
^ 三上 1915, p. 168.
^ 井沢元彦 『逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎』 小学館、2004年、8頁。
^ 松田毅一 『西洋との出会い』上、大阪書籍、1982年、142頁。
^ 幸田成友「太閤は六ツ指か」、『三田評論』223号、1916年。
^ 渡邊大門 『秀吉の出自と出世伝説』 洋泉社、2013年、85-86頁。
^ 跡部信 『豊臣秀吉と大坂城』 吉川弘文館、2014年、9頁。
^ 服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』 山川出版社、2012年、572頁。
^ 東大史料編纂所写真集、十八表―裏
^ 『日本西教史』
^ 若林利光 『寿命戦争 - 武将列伝』 かりばね書房、2009年。
^ 平凡社『大百科事典』
^ 曲直瀬玄朔『医学天正記』。
^ 『駒井日記』
^ 『日本史人物辞典』70頁
^ 『戦国人物700傑』119頁
^ 『家康名臣伝』255頁
^ 林屋辰三郎「豊臣秀吉」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版。
^ 渡辺世祐 1919, p. 180.
^ 渡辺世祐 1919, p. 186-187.
^ 渡辺世祐 1919, p. 192.
^ 桑田忠親 『豊臣秀吉の発想力と知謀』 広済堂文庫、1990年、222頁。ISBN 4-331-65065-0
^ 矢部良明 『茶人豊臣秀吉』 角川選書、2002年、255-261頁。ISBN 978-4047033474
^ 脇田修 『秀吉の経済感覚 経済を武器とした天下人』 中公新書、1991年、112-123頁。ISBN 978-4121010155
^ 平山優『天正壬午の乱』学習研究社、2011年
^ その時歴史が動いた「戦国北条氏 百年王国の夢」
^ “石高制”. 2016年3月18日閲覧。
^ 朝尾直弘『近世とはなにか』
^ 池上裕子『日本中近世移行期論』
^ 鎌田道隆「京都改造: ひとつの豊臣政権論」、『奈良史学』11号、1993年、 21頁。
^ 高橋裕史 『イエズス会の世界戦略』 講談社、1999年。
^ 『妙法院文書』
- ^ ab清水紘一、「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」、藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年。ISBN 4639011954。
- ^ ab佐賀県立名護屋城博物館 2007, p. 43
^ 佐賀県立名護屋城博物館 2007, p. 16.
^ 木村展子「四天王寺の慶長再建について (PDF) 」 、『美術史論集』9号、2009年、 21-33頁。
- ^ ab三鬼清一郎「豊国社の造営に関する一考察」、『名古屋大学文学部研究論集』98号、1987年、 206頁。
^ 『故従一位豊臣秀吉贈位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A11112488700
^ 鄭潔西「秀吉の中国人説について」
^ 『池田軍記』. http://digioka.libnet.pref.okayama.jp/cont/01/G0000002kyoudo/000/024/000024117.pdf.
^ 本能寺の変の後に、父・恒興と秀吉との間に輝政が養子になること、恒興の娘(若政所)が秀次に嫁がせることが取り決められた。輝政は信長の大徳寺での葬儀の際、同じ秀吉の養子である羽柴秀勝と共に棺を担いでいる。
^ 高野山戦国大名の墓 Archived 2007年8月10日, at the Wayback Machine.
^ 新発見「豊臣期大坂図屛風」の魅力関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日
参考文献
- 藤木久志 『織田・豊臣政権』 小学館、1975年。
- 藤木久志 『豊臣平和令と戦国社会』 東京大学出版会、1985年。
ISBN 978-4130200738。 - 朝尾直弘 『天下一統』 小学館〈大系 日本の歴史〉、1988年。
ISBN 978-4096220085。 - 朝尾直弘 『将軍権力の創出』 岩波書店、1994年。
- 中野等「文禄・慶長期の豊臣政権―国制の転換とその破綻―」、『歴史評論』534号、1994年。
- 小和田哲男 『豊臣秀吉』 中央公論社〈中公新書〉、1985年。
ISBN 978-4121007841。 - 小和田哲男 『関ヶ原から大坂の陣へ』 新人物往来社、1999年。
ISBN 440402844X。
村川浩平 『日本近世武家政権論』 近代文芸社、2000年。
- 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」、『駒沢史学』80号、2013年。
佐賀県立名護屋城博物館編 『秀吉と文禄・慶長の役』、2007年。
- 田端泰子 『北政所おね -大坂の事は、ことの葉もなし-』 ミネルヴァ書房、2007年。
ISBN 978-4623049547。
新人物往来社編 『太閤秀吉と豊臣一族 : 天下人と謎に包まれた一族の真相』 新人物往来社、2008年。ISBN 9784404036131。
- 池上裕子 『織豊政権と江戸幕府』 講談社〈講談社学術文庫 日本の歴史15〉、2009年。
ISBN 978-4062919159。 - 谷口央 (2011年3月11日). “小牧長久手の戦い前の徳川・羽柴氏の関係”. 首都大学東京都市教養学部人文・社会系. 2017年8月7日閲覧。
服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』 山川出版社、2012年。
- 富澤一弘、佐藤雄太「“加沢記”からみた真田氏の自立 : 外交政策・家臣統制を中心に」、『高崎経済大学論集』第54巻、高崎経済大学経済学会、2013年。
三鬼清一郎; 名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集』 吉川弘文館、2015年。
河内将芳 『秀吉の大仏造立』 法蔵館、2008年。
谷口克広 『信長・秀吉と家臣たち』 学研パブリッシング。ISBN 9784054050211。
遠藤ゆり子編 『伊達氏と戦国争乱』 吉川弘文館〈東北の中世史 4〉、2015年。
徳富猪一郎 国立国会図書館デジタルコレクション 『豊臣氏時代 己篇 朝鮮役 下巻』第9巻 民友社〈近世日本国民史〉、1935年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223773/117 国立国会図書館デジタルコレクション。
クラツセ, ジアン (1925), 国立国会図書館デジタルコレクション 日本西教史, 上, 太陽堂書店, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971162/302 国立国会図書館デジタルコレクション
[[渡辺世祐 |渡辺世祐]] 国立国会図書館デジタルコレクション 『豊太閤と其家族』 日本学術普及会、1919年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953289/51 国立国会図書館デジタルコレクション。
三上参次、国立国会図書館デジタルコレクション 「豊太閤に就いて」、日本歴史地理学会編 『安土桃山時代史論』 仁友社、1915年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950965/124 国立国会図書館デジタルコレクション。
- ルイス・フロイス 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』 松田毅一;川崎桃太訳、中央公論新社〈中公文庫〉、2000年。
- ルイス・フロイス 『完訳フロイス日本史5 「暴君」秀吉の野望』 松田毅一;川崎桃太訳、中央公論新社〈中公文庫〉、2000年。
大かうさまくんきのうち(慶應義塾大学保有)
山陽新聞社 『ねねと木下家文書』 山陽新聞社、1982年。
長谷川成一 『北奥羽の大名と民衆』 清文堂出版、2008年。ISBN 9784792406455。
史料
- 天正記
- 太閤記
関連項目
- 太閤山荘
- 出世稲荷神社 (京都市)
- 稲荷社(高座結御子神社、名古屋市) - 豊臣秀吉が幼少の時、母大政所に連れられて立身出世を祈ったといわれ、「太閤出世稲荷」の別名を持つ。
- 源平交代思想
- 太閤将棋
- 高台寺
- 太田城 (紀伊国)
- 高槻城
- 広徳寺 (尼崎市)
常泉寺 (名古屋市) - 出生地と伝わる。
八幡山城 - 豊臣秀吉が普請を指導したと言われている。
豊国神社 (曖昧さ回避):各地にある秀吉を祀る神社。- 有馬温泉
- 太閤出世餅
外部リンク
- 豊臣氏系譜
- 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観 豊臣氏
- 豊臣秀吉産湯の井
- 中村公園駅にある大鳥居(豊国神社)
|
|
|
|