薩摩国
この項目に含まれる文字「薩」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。 「薩」の文字は公式の表記「」と異なる可能性があります。 |
薩摩国 | |
---|---|
■-薩摩国 ■-西海道 | |
別称 | 薩州(さっしゅう) |
所属 | 西海道 |
相当領域 | 鹿児島県西部 |
諸元 | |
国力 | 中国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 13郡35郷 |
国内主要施設 | |
薩摩国府 | 鹿児島県薩摩川内市 |
薩摩国分寺 | 鹿児島県薩摩川内市(薩摩国分寺跡) |
薩摩国分尼寺 | (推定)鹿児島県薩摩川内市 |
一宮 | 新田神社(鹿児島県薩摩川内市) 枚聞神社(鹿児島県指宿市) |
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。
目次
1 沿革
1.1 近世以降の沿革
2 国内の施設
2.1 国府
2.2 国分寺・国分尼寺
2.3 神社
2.4 安国寺利生塔
3 地域
3.1 郡
3.2 江戸時代の藩
4 人物
4.1 国司
4.2 守護
4.2.1 鎌倉幕府
4.2.2 室町幕府
4.3 戦国大名
5 薩摩国の合戦
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
沿革
大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、10月3日までに唱更国(唱更 = はやひと[1]/はやと[2]/しょうこう[3])が置かれたのが、薩摩国の始まりである[4]。唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう[5]。
国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた[6]。8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点では全域が鹿児島藩領であった。(307村・319,146石余)
伊佐郡(49村・51,340石余)、薩摩郡(29村・38,647石余)、日置郡(50村・46,562石余)、谿山郡(8村・12,577石余)、揖宿郡(11村・12,893石余)、頴娃郡(8村・10,875石余)、鹿児島郡(25村・27,368石余)、給黎郡(8村・9,634石余)、甑島郡(14村・3,508石余)、阿多郡(20村・18,211石余)、川辺郡(36村・30,444石余)、高城郡(11村・12,657石余)、出水郡(38村・44,424石余)
- 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により鹿児島県の管轄となる。
- 明治30年(1897年)4月1日
北伊佐郡・大隅国菱刈郡の区域をもって伊佐郡が発足。旧・菱刈郡域が薩摩国の所属となる。
川辺郡のうち川辺郡十島(硫黄島、黒島、竹島、口之島、臥蛇島、平島、中之島、悪石島、諏訪之瀬島、宝島)の所属郡が大島郡に変更。大隅国の所属となる。
国内の施設
国府
国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。
現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年(昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺・国分尼寺
薩摩国分寺跡
薩摩川内市国分寺町。
神社
- 延喜式内社
- 『延喜式神名帳』には、以下に示す小社2座2社が記載されている(「薩摩国の式内社一覧」参照)。大社はない。
頴娃郡 枚聞神社 (指宿市)
出水郡 加紫久利神社 (出水市)
総社・一宮
- 総社 不詳 - 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
- 一宮 新田神社 (薩摩川内市) - 式外社。国府の近くにあった。
- 元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。
二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。
安国寺利生塔
- 安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
- 安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
地域
現在は桜島を除く鹿児島市、指宿市全域、枕崎市全域、南九州市全域、南さつま市全域、日置市全域、いちき串木野市全域、薩摩川内市全域、さつま町全域、阿久根市全域、出水市全域、長島町全域、旧菱刈町と旧西太良村を除く伊佐市、三島村、十島村が含まれる。人口の過半数が鹿児島市に集中している。
郡
高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となった。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
- 出水郡
- 高城郡
- 薩摩郡
- 伊佐郡
- 甑島郡
- 日置郡
伊作郡(後に阿多郡と統合)- 阿多郡
- 谿山郡
- 河辺郡
- 給黎郡
- 揖宿郡
- 頴娃郡
- 鹿児島郡
江戸時代の藩
薩摩藩、島津家(77万石)
人物
国司
守護
鎌倉幕府
- 1197年 - 1227年:島津忠久
- 1227年 - 1265年:島津忠時
- 1265年 - 1281年:島津久経
- 1281年 - 1318年:島津忠宗
- 1318年 - 1333年:島津貞久
室町幕府
- 1333年 - 1363年:島津貞久
- 1336年 - 1342年:阿蘇惟時
- 1363年 - 1366年:島津師久
- 1366年 - 1376年:島津伊久
- 1376年 - 00?00:今川貞世
- 1393年 - 1411年:島津元久
- 1411年 - 1425年:島津久豊
- 1425年 - 1470年:島津忠国
- 1470年 - 1474年:島津立久
- 1474年 - 1507年:島津忠昌
- 1507年 - 1515年:島津忠治
- 1515年 - 1519年:島津忠隆
- 1519年 - 1527年:島津勝久
- 1527年 - 1566年:島津貴久
- 1566年 - 1602年:島津義久
戦国大名
- 島津氏
薩摩国の合戦
年 | 合戦 | 交戦勢力 |
---|---|---|
養老4〜5年 (720–21) | 隼人の反乱 | ハヤト族 vs. ヤマト王権 |
長徳3年 (997) | 長徳の入寇 | 南蛮人(高麗国人?奄美島人?) vs. 九州全域の沿岸住民 |
応永20年 (1413) | 伊集院頼久の乱 | 島津久豊 vs. 伊集院頼久 |
天正15年 (1587) | 平佐城の戦い | 島津氏 vs. 豊臣政権 |
文久3年 (1863) | 薩英戦争 | 薩摩藩 vs. イギリス |
明治10年 (1877) | 西南戦争 | 不平士族 vs. 明治政府 |
脚注
^ 「薩摩国」『世界大百科事典』 平凡社、「薩摩国」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 講談社、「西海道」『国史大辞典』 吉川弘文館。
^ 「九州地方」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 講談社。
^ 「薩摩国」『日本歴史地名大系 47 鹿児島県の地名』 平凡社。
^ 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
^ 新日本古典文学大系『続日本紀』一の345頁、補注2の157。
^ 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。
参考文献
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『続日本紀』一(新日本古典文学大系12)、岩波書店、1989年。
角川日本地名大辞典 46 鹿児島県- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目
- 令制国一覧
- 三国名勝図会
- 薩摩焼
- サツマイモ
薩摩(戦艦)‐旧日本海軍の戦艦。薩摩型戦艦の1番艦。艦名は薩摩国に因む。
|
|