筑波大学附属小学校
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筑波大学附属小学校 | |
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過去の名称 | 東京師範学校附属小学校 東京高等師範学校附属小学校 東京高等師範学校附属国民学校 東京教育大学附属小学校 |
国公私立の別 | 国立学校 |
設置者 | 国立大学法人筑波大学 |
校訓 | 教育目標 ・人間の自覚を深めていくこども ・文化を継承し創造し開発するこども ・国民的自覚をもったこども ・健康で活動力のあるこども |
設立年月日 | 1873年1月15日 |
創立記念日 | 1月15日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 二期制 |
所在地 | 〒112-0012 |
東京都文京区大塚三丁目29番1号 北緯35度43分16.5秒東経139度44分12秒座標: 北緯35度43分16.5秒 東経139度44分12秒 | |
公式サイト | 筑波大学附属小学校 |
プロジェクト:学校/小学校テンプレート |
筑波大学附属小学校(つくばだいがくふぞくしょうがっこう、Elementary School, University of Tsukuba)は、東京都文京区大塚三丁目にある国立小学校。筑波大学の附属校。男女共学。通称は「筑附(つくふ)」、「筑小」、「附属小」。
目次
1 概要
2 主な行事
3 沿革
4 校章・校歌
4.1 校章
4.2 校歌
5 著名な出身者
6 アクセス
7 関連校
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
概要
1872年(明治5年)の学制発布を受けて、1873年(明治6年)1月15日に東京師範学校の附属小学校として江戸幕府直轄の昌平坂学問所跡に設立された、国の制度に基づく日本初の小学校で、官立私立小学校の中において創立年が一番古い小学校である[1]。
現在の募集人数は毎年128人(男64・女64)で、毎年の志願者数が募集人数の30倍程に上り、国内最多の志願者が集まる小学校である。このため入学試験では筆記・実技試験の前に、抽選器を用いた一次検定抽選が行われ、約4,500名の応募者のうち男女1,000名ずつ程度が2次検定試験を受けられる。筆記・実技試験の2次検定合格者男女各100名でさらに3次検定の第二次抽選を経て、最終的に男女各64名が最終検定合格者となる。
当校は4クラス編成であるが、クラスの呼び方が一般の学校とは異なっている。一般の学校では、通常クラスを○年○組と称するが、当校では○部○年と称する。このため、一般の学校の「1年4組」を当校では「4部1年」と称し、1年から6年までの部ごとの縦割りの活動が存在する。また、部ごとにクラスカラーがあり、1部~4部までがそれぞれ黄、緑、紫、赤となっている。運動帽やリュックサックの紐、縄跳び、バンダナなど、クラスごとにこれらがイメージカラーとなっている。
古くから教科担任制をとっていることや、各教科で教育研究が行われてきたことから、いわゆる「職員室」は存在せず、各教科ごとに「○○科準備室」が独立して校内随所に散在する。また、学級担任は学年が上がるとともにそのまま持ち上がり、1学年4クラス128名を6年間、4人の担任団がチームとなって受け持ち、子供達の成長・発達を長い目で見守る。
昭和50年代までは6年間クラス替えが無かったが、それ以降、3年から4年に上がる時の1回のみクラス替えを行うようになり、現在に至る。また、クラス替え前後で同じ部になることはない。このため、前述の通り各クラスの担任は6年間変わらないことから、クラス替え前後で担任も同じになることはない。
体育館と土のグラウンドが広大な敷地内にそれぞれ2つずつある。毎朝登校すると、まず制服から体操着に着替え、授業前の「朝の活動」と呼ばれる時間にクラス単位でドッジボールや縄跳びをしたり、併設されている「占春園」(水戸徳川家2代徳川光圀の弟松平頼元が1659年にこの地に構えた屋敷の名残である日本庭園)を走ったりする。また、占春園は自然観察など理科教育の場としても利用される。
筑波大学附属中学校へは、内部進学入試を経て、卒業生の上位8割程度が進学できる。
入学に際して運動能力をみる2次検定試験があるため、運動神経が優れた児童が比較的多く、ハイレベルな体育の授業が行われている。校内では、教育発表会やテレビや新聞、出版の取材の時は制服で授業を受けるが、普段は登校後運動着に着替える。他校に比べ薄着で、真冬は長袖のセーターを着用してもよいが、大半は半袖短パン(女子はブルマー)で過ごす。体育はどんなに寒くても全員半袖短パンにならなければならない。
通学範囲は東京都区部と西東京市、埼玉県和光市である。大部分は片道1時間かけて通学し、中には1時間半や2時間近くかけて通う児童もいる。登校時間が早いため、朝、家を出る時間がとても早く、中には6時前に出る児童もいる。
日本の初等教育のパイオニアであり、全国や海外から年1万人以上が訪れる教師の教育拠点校である。次世代を支える子供たちの育成を目指し、研究テーマを設け、授業研究を伴いながら、理論と実践の研究を行っている。
- 1990~1992「子供の感性が生きる授業」
- 1993~1996「学ぶ価値を見出し追究する活動」
- 1997~1999「自分づくりを支える教育課程」
- 2000~2003「子供の豊かに培う共生・共創の学び」
- 2004~2007「子供の力」を高める
- 2008~「独創」の教育
主な行事
- 大運動会が毎年10月1日付近の土曜日に行われる。この大運動会は文字通りの大運動会で、練習・準備・応援ともに児童・教師・保護者が大変熱を入れて、徹底的に優勝劣敗を競う。そのため、9月には他の授業を振り替えての練習や朝7時半までに登校して朝練、友達同士で空いた時間に練習がとても盛んである。縄跳びが盛んな学校であるが、大運動会の二重跳びの生き残りを争う競技では、20分間程二重跳びをし続ける児童が豊富に存在する。
- 毎年11月には、若桐会 (PTA) が主催する文化祭、「若桐祭」が催される。若桐会で活動する保護者のみならず、保護者全体が各分野で活躍する豊富な人材が存在することも奏し、保護者同士が試行錯誤を繰り返し、在校生が楽しめる純粋で本格的な内容となっている。2014年には、桐の手紙を世界各国に発送し、エストニア共和国トーマス・イルヴェス大統領からは感謝状とモミの木が贈呈されている。すべては、愛する子供と学校のために行う活動が、相乗効果を生み、学校を一つの一体感と価値観とを確立している。
- 春と秋には、西東京市保谷にある学校附属の保谷農園にサツマイモの苗差し、ジャガイモ掘り、サツマイモ掘り、梨狩りに行く。また、クラス替え前である3年次、卒業前である6年次の3月には、保谷農園でクラスごとに餅つきを行う。
- 3年生以上は、山梨県の清里高原にある附属清里若桐寮へ、毎年異なる季節に清里合宿に行く。3年次は美し森、4年次は飯盛山、5年次は(小天狗2000m級の山)、6年次では三ッ頭(八ヶ岳)の登山を全員でする。
- 5年次では志賀高原へ「雪の生活」(スキー合宿)へ行く。
- 6年次には、千葉県富浦の附属中学校富浦寮へ遠泳に行き、古式泳法の一つである水府流太田派を伝承する附属桐游倶楽部会員の指導のもと、全員が1時間ほどで約2kmを泳ぎ切る。このため、児童全員が1年生からスイミングスクールに通って練習し、中には選手コースで練習する児童もかなり多い。6年次7月の富浦合宿に向けて、毎年夏休みの間には学校のプールにおいて、1年・6年ペア、2年・5年ペア、3年・4年ペア、の3期に分けて1週間ずつの若桐会 (PTA) が主催する「水泳学校」があり、本校の卒業生である大学生による指導が行われる。
- また、東京高等師範学校尋常中等科(現・筑波大学附属中学校・高等学校)がその発祥に深く関わっている修学旅行は6年次2月頃に行い、京都・奈良へ行くのが伝統となっている。
- そして5年次6年次では、通称「統一テスト」が行われる。これは、内部進学入試の模擬試験に当たり、国算理社の4教科を学年全体で行う。その成績を基に1~40位はA、41~80位はB 81~120位はC、121~160位はD、などと順位付けがされる。
沿革
1872年 - 神田昌平黌跡(現・湯島聖堂)に官立の師範学校を創設。
1873年 - 東京市神田区宮本町(現・千代田区外神田2丁目)にて、東京師範学校の附属練習小学校として設立。(本校の創立)
1874年 - 明治天皇の行幸を仰ぐ。
1885年 - 東京師範学校が東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)を合併。
1886年 - 師範学校令の施行により東京高等師範学校を高等師範学校に改称。同年、再び明治天皇の行幸を仰ぐ。
1888年 - 附属学校と改称。小学科の他に尋常中学科を設置。制帽および桐花の徽章を制定。
1890年 - 東京市神田区一ツ橋通町(現・千代田区一ツ橋2丁目)に移転。
1890年 - 高等師範学校から女子部(現・お茶の水女子大学)を分離。
1896年 - 尋常中学科を分離。小学科を附属小学校と改称。
1902年 - 東京高等師範学校附属小学校と改称。
1904年 - 1909年 東京市小石川区大塚窪町の現在地に移転。
1911年 - 明治天皇の名代として、東宮の行啓を仰ぐ。
1931年 - 昭和天皇の行幸を仰ぐ。
1936年 - 2月に新校舎(現在の1号館)落成。
1941年 - 東京高等師範学校附属国民学校と改称。
1945年 - 3-10月に新潟県南魚沼郡中の島村に集団疎開。
1949年 - 東京教育大学附属小学校と改称。
1958年 - 山梨県北巨摩郡高根町(現・北杜市)清里に若桐寮開設。
1973年 - 創立100周年記念式典。卒業生末広恭雄、丹阿弥谷津子講演。100周年大運動会開催。
1978年 - 東京教育大学の閉学に伴って現在の筑波大学附属小学校に改称。
2003年 - 創立130周年記念式典。
2004年 - 国立大学法人筑波大学に移管。
2014年 - エストニア共和国トーマス・イルヴェス大統領から感謝状とモミの木が贈呈。
校章・校歌
校章
1888年(明治21年)11月に五三の桐の校章が制定された。その桐章は、明治天皇の行幸の際、皇室の御紋章である五七の桐章を校章に用いるようご沙汰を頂いたことによる。しかし五七の桐では不敬にわたることがあってはとの理由で五三の桐となった。
校歌
佐佐木信綱作詞、信時潔作曲である。
著名な出身者
青木喬(1911卒) - 大日本帝国陸軍少将
芥川比呂志(1932卒) - 俳優
芥川也寸志(1938卒) - 作曲家、指揮者
麻生誠 - 教育社会学者、大阪大学・放送大学名誉教授、放送大学副学長
飯沢匡(1922卒) - 劇作家、演出家、小説家
伊賀氏広(1899卒) - 日本の飛行機製作の先駆者
石弘光(1950卒) - 元一橋大学学長、放送大学学長
石弘之(1953卒) - 環境ジャーナリスト
石井進(1944卒) - 日本史学者
石川馨(1928卒) - 元武蔵工業大学(現・東京都市大学)学長、東京大学名誉教授
石川欣一(1906卒) - ジャーナリスト、元毎日新聞社出版局長
石川六郎(1938卒) - 鹿島建設取締役名誉会長
石黒忠篤(1896卒) - 元農林大臣、「農政の神様」、日本国憲法の勤労の義務条項を提案
伊瀬知悠(2007卒)- 俳優
市原豊太(1915卒) - フランス文学者
井上和雄(1965卒) - 元衆議院議員、民主党国際局副局長
井上柳梧(1893卒) - 蚕糸学者、元上田蚕糸専門学校校長、長野県短期大学初代学長、元長野県上田市長
今村次吉(1891卒) - 大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)初代会長
岩崎小弥太(1891卒) - 三菱財閥第4代総帥、成蹊学園創立
岩崎彦弥太(1908卒) - 元三菱合資副社長
岩崎隆弥(1909卒) - 元三菱製紙会長、三菱瓦斯社長、小岩井農牧(現・小岩井農場)会長
岩崎俊弥(1891卒) - 旭硝子創業、社長
岩崎輝弥(1899卒) - 子安農園主
宇野精一(1923卒) - 儒学者、国語学者、元斯文会理事長、東京大学名誉教授、尚絅大学名誉学長
大久保治男(1947卒) - 法学者、武蔵野学院大学副学長、駒澤大学名誉教授
大野公男(1939卒) - 化学者、元北海道情報大学学長、北海道大学名誉教授
岡松壮三郎(1949卒) - 元アラビア石油副社長、元通産審議官
小田部胤久(1971卒) - 美学者、東京大学教授、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞
落合畯(1952卒) - 元海上自衛隊海将補(ペルシャ湾派遣掃海部隊を指揮)、沖縄戦で海軍陸戦隊を率いた大田実中将の三男
鬼丸かおる(1961卒) - 最高裁判所判事
嘉治元郎(1938卒) - 経済学者、元東京大学教養学部長、元放送大学副学長
勝田有恒(1944卒) - 法学者
金森久雄(1937卒) - 経済評論家
嘉納行光(1945卒) - 講道館名誉館長、全日本柔道連盟会長、講道館柔道創始者嘉納治五郎(元東京高等師範学校校長)の孫
亀井貫一郎(1905卒) - 元衆議院議員、大政翼賛会総務兼企画局東亜部長
菊池正士(1915卒) - 物理学者
岸本英夫(1916卒) - 宗教学者
木子七郎(1896卒) - 建築家、愛媛県庁舎等を設計
草原真知子(1960卒) - メディアアート学者、キュレーター、早稲田大学教授
熊谷亮丸(1978卒) - 経済学者、大和総研チーフエコノミスト、大阪経済大学客員教授
畔柳信雄(1954卒) - 三菱東京UFJ銀行頭取
小池龍二(1911卒) - 大日本帝国陸軍少将、実業家
幸田露伴 - 小説家
児玉進(1939卒) - 映画監督
小林愛雄(1892卒) - 作詞家、翻訳家、元早稲田実業学校校長、日本のオペラ普及に尽力
坂口昂吉(1944卒) - 西洋史学者、慶應義塾大学名誉教授
佐藤方哉(1945卒) - 心理学者、慶應義塾大学名誉教授(佐藤春夫の長男)
佐野一彦(1965卒) - イラストレーター、映画「スター・ウォーズ ジェタイの復讐」の公式ポスターを作製
澤柳政太郎 - 教育官僚、教育者、成城学園創立
澤柳大五郎(1924卒) - 西洋美術学者、元東京教育大学教授、元早稲田大学教授
設楽洋(1964卒) - ビームス社長
渋沢秀雄(1905卒) - 実業家、随筆家、東京宝塚劇場会長、東宝会長(渋沢栄一の四男)
渋沢敬三(1909卒) - 元日本銀行総裁、大蔵大臣(渋沢栄一の長男の長男)
嶋中鵬二(1935卒) - 中央公論社第2代社長
島田孝一(1906卒) - 元早稲田大学総長
島田秀夫(1928卒) - 元日本サッカー協会会長、日本サッカー協会最高顧問
下田武三(1920卒) - 元外務次官、駐米大使、最高裁判事、プロ野球コミッショナー
正田英三郎(1916卒) - 日清製粉社長(皇后美智子の父)
末広恭雄(1913卒) - 水産学者、元京急油壺マリンパーク館長、随筆家、作曲家
鈴木信太郎(1908卒) - フランス文学者、東京大学名誉教授、元日本芸術院会員
鈴木淑夫(1944卒) - 元衆議院議員、エコノミスト(元日本銀行金融研究所所長)
高階秀爾(1944卒) - 美術史学者
高木徹(1978卒) - NHK報道ディレクター
鷹司信輔(1901卒) - 公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者
高橋伸夫(1952卒) - 地理学者、筑波大学名誉教授
高橋文明(1961卒) - 元スペイン駐箚特命全権大使、元科学技術振興機構審議役
高畠達四郎(1908卒) - 画家、独立美術協会創立会員
武井守成(1903卒) - 宮内省楽部長、式部官長、男爵
竹田晃(1943卒) - 中国文学者、東京大学名誉教授、夏の甲子園大会に出場し、初めてチームとしてグラウンドの土を持ち帰る
田口時夫(1943卒) - 数理統計学者
田中薫(1911卒) - 地理学者、子爵
田辺淳吉(1892卒) - 建築家、清水満之助店(現・清水建設)技師長
田波靖男(1946卒) - 脚本家、作家、プロデューサー
丹阿弥谷津子(1937卒) - 女優
團遥香(2006卒) - 女優、タレント
塚原俊平(1959卒) - 労働大臣、通商産業大臣
津田真男 - 幻のモスクワオリンピック・シングルスカル日本代表
坪井忠二 (1915卒) - 地球物理学者
鶴見俊輔 - 哲学者
寺内寿一(1892卒) - 元帥陸軍大将、伯爵、陸軍大臣、陸軍教育総監[2]
戸賀崎智信(1986卒) - AKB48劇場支配人
徳川圀順(1899卒) - 貴族院議長
徳川宗敬(1910卒) - 貴族院副議長
徳川好敏(1897卒) - 陸軍中将、男爵、陸軍航空士官学校校長、日本の航空史上初めて飛行機で日本の空を飛んだ人物
徳川武定 (1902卒) - 陸軍中将、東京帝国大学教授
徳永康元 - ハンガリー文学者、東京外国語大学名誉教授
徳山明(1945卒) - 地質学者、元富士常葉大学学長、静岡大学および兵庫教育大学名誉教授
戸田順之助 - 戸田建設会長
外山雄三(1944卒) - NHK交響楽団正指揮者
中井英夫(1935卒) - 作家
中江陽三(1945卒) - NHKアナウンサー
中島健蔵(1915卒) - フランス文学者、評論家
中野武二(1897卒) - 野球選手、旧制一高の名二塁手、野球殿堂入り
中村彰(1929卒) - 俳優、「学士俳優」第一号、中村春二の五男
中村春二(1890卒) - 教育者、成蹊学園創立
中村靖(1944卒) - 元衆議院議員
永井道雄 - 教育社会学者、文部大臣
永持源次(1896卒) - 大日本帝国陸軍中将、元日本製鐵常務、元全国軍人恩給連合会長
難波成任(1964卒) - 植物病理学者、東京大学大学院農学生命科学研究科教授、紫綬褒章受章
新田純興(1910卒) - 大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)創設、元JFA常務理事、1964年東京オリンピック準備委員長
野口遵 - 日窒コンツェルン創立者
野村四郎 - 能楽師
野村万之介(1952卒) - 狂言師
野村萬斎(二世)(1979卒) - 狂言師
芳賀檀(1916卒) - ドイツ文学者
芳賀徹 - 比較文学者、東京大学名誉教授
長谷川伝次郎(1906卒) - 写真家
波多野精一(1888卒) - 宗教哲学者
八田嘉明(1892卒) - 元商工大臣、元拓務大臣、元鉄道大臣、元逓信大臣、元帝国石油総裁、元拓殖大学総長
鳩山一郎(1895卒) - 元内閣総理大臣(第52・53・54代)
鳩山威一郎 - 元大蔵事務次官、参議院議員、外務大臣
鳩山秀夫(1896卒) - 元衆議院議員、鳩山一郎の弟
はねだえりか(1985卒) - タレント
浜尾四郎(1909卒) - 貴族院議長、検察官、弁護士、小説家
春山泰雄(1919卒) - 元サッカー日本代表選手、元日刊スポーツ編集局長
福田康夫 - 衆議院議員、第91代内閣総理大臣(中退。のち東京学芸大学附属世田谷小学校卒業)
藤田嗣治(1900卒)- 画家
藤巻健史(1963卒)- 参議院議員、元モルガン銀行(現・JPモルガン・チェース)東京支店長、為替トレーダー
古谷佐世子(1964卒) - フランス文学者、学習院大学助手、大東文化大学講師
星出豊(1954卒) - 指揮者、昭和音楽大学教授
保利耕輔(1947卒) - 衆議院議員
堀内敬三(1910卒) - 作曲家、作詞家、訳詞家、音楽評論家、音楽之友社社長
本間長世 - 東京大学名誉教授、成城学園学園長
槇山次郎(1909卒) - 古生物学者、地質学者、日本地質学会元会長、京都大学名誉教授、ナウマンゾウを命名
班目春樹(1960卒) - 原子力工学者、東京大学大学院教授、内閣府原子力安全委員会委員長
松本茂(1968卒) - 英語教育学者、立教大学教授
松本烝治(1888卒) - 商法学者、元東京帝国大学教授、内閣法制局長官、貴族院議員、商工大臣、憲法草案(松本試案)を作成
皆川玲奈(2004卒) - TBSテレビアナウンサー、元Seventeen専属モデル
美濃部ゆう(2002卒) - 北京オリンピック女子体操選手
美濃部亮吉(1916卒) - 元東京都知事、元参議院議員
宮澤喜一 - 第78代内閣総理大臣
宮澤洋一(1962卒)- 衆議院議員
宮脇磊介 - 元皇宮警察本部長、内閣広報官
村岡博人(1944卒) - 元サッカー日本代表選手、共同通信社の元運動部記者
村上誠一郎(1965卒) - 元規制改革・産業再生機構担当大臣
村山雅美(1930卒) - 元南極地域観測隊隊長、国立極地研究所名誉教授、日本人として初めて南極点に到達
森亘(1938卒) - 元東京大学総長・医学部長、第5代日本医学会会長
諸井貫一(1908卒) - 秩父セメント(現・太平洋セメント)社長、埼玉銀行会長
諸井三郎 - 作曲家
諸橋晋六(1935卒) - 三菱商事相談役
八杉貞利 (1887年) - ロシア語学者
安田浩(1957卒) - 計算機科学者、東京電機大学教授、東京大学名誉教授
山崎升(1933卒) - 化学者(高分子工学)、元日本ゴム協会会長、東京工業大学名誉教授
山根銀二(1918卒) - 音楽評論家、ベートーヴェン研究家
山本夏彦 - 随筆家、編集者
山田真巳(1950卒) - 日本画家
由良君美 - イギリス文学者
吉田庄一郎(1945卒) - ニコン相談役
吉野源三郎(1912卒) - 児童文学者、評論家、「君たちはどう生きるか」著者、「世界」初代編集長
龍粛(1902卒) - 歴史学者、元東京大学史料編纂所長
渡辺泰造(1946卒) - 元駐インドネシア大使、愛知博日本政府代表
渡辺裕泰(1958卒) - 元国税庁長官
アクセス
東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅徒歩8分
関連校
- 東京高等師範学校
- 東京教育大学
筑波大学
- 筑波大学附属中学校・高等学校
- 筑波大学附属駒場中学校・高等学校
- 筑波大学附属坂戸高等学校
- 筑波大学附属視覚特別支援学校
- 筑波大学附属聴覚特別支援学校
筑波大学附属大塚特別支援学校(知的障害)
筑波大学附属桐が丘特別支援学校(肢体不自由)
筑波大学附属久里浜特別支援学校(自閉症)
脚注
^ 海後宗臣、仲新、寺崎昌男『教科書でみる 近現代日本の教育』東京書籍、1999年
^ 国立国会図書館デジタルコレクション『大将の少年時代』174頁~189頁 (著者:中田千畝 出版者:実業之日本社 発行:1938年(昭和13年)8月1日) (2018年11月19日閲覧。)
関連項目
- 東京都小学校一覧
- 日本の国立学校一覧
- 学校に関する日本一の一覧#歴史
外部リンク
- 筑波大学附属小学校
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