ドンバス
ドンバス(ウクライナ語: Донбас、ロシア語: Донбасс)は東ウクライナ内の歴史的、文化的、経済的地域である。
単語ドンバスはドネツ盆地(ウクライナ語: Донецький басейн、ロシア語: Донецкий бассейн)に由来する混成語である[1]。ドネツ盆地の名称はそこを貫流するドネツ川に由来する。ドンバス地域の範囲には多くの定義が有るが、境界線が公式に定められた事は一度も無い。
今日用いられる最も一般的な定義はウクライナのドネツィク州とルハーンシク州を指すものである。[2]
他方、採炭(あるいは炭田)地域としてのドンバスからは、上記2州の幾つかの部分が除外され、ドニプロペトロウシク州と南ロシアの一部が含まれる。
同名のユーロリージョンはウクライナのドネツィク、ルハーンシク州とロシアのロストフ州から構成される。ドンバスはザポロズカ・シーチ(コサックの自治政体)とドン・コサック・ホスト(Don Cossack Host)との歴史的な境界線を成してきた。重工業化した19世紀後半以降、ドンバスは重要な採炭地域であり続けた。
2014年3月ウクライナ革命(親露派大統領の追放)に引き続いてドンバスの大きな領域が反乱(親露派による)によって支配されるに至った。この反乱は後にドネツク人民共和<国>[3]及びルガンスク人民共和<国>[3]と連携した親露派分離主義者と革命後のウクライナ人政府との間の戦争へと発展した。戦争が進行するまでドンバスは首都キーイウ(キエフ)を除けばウクライナの地域の中で最も人口が密集していた。
内戦前、ドネツィク市(ウクライナで5番目の都市だった)がドンバスの非公式な首都であると考えられていた。大都市(人口10万人以上)にはルハーンシク、 マリウポリ、 マキイフカ、ホルリウカ、クラマトルスク、 スラヴャンスク、アルチェヴスク、シェヴェロドネツクとリシチャンスクが含まれていた。
現在ドネツィク州の暫定行政機関はクラマトルスクに、ルハーンシク州のそれはシェヴェロドネツク に置かれている。
分離主義者側ではドネツク人民共和<国>ではドネツィク、マキイフカ、ホルリウカがルガンスク人民共和<国>ではルハーンシク、 アルチェヴスクが最大級の都市である。
目次
1 歴史
1.1 ロシア帝国時代
1.2 ソビエト時代
1.3 独立ウクライナ時代
1.4 ドンバスにおける内戦(2014年から現在)
2 人口統計と政治
3 経済
3.1 石炭産業における労働安全
3.2 環境問題
4 世論
5 訳注
6 関連項目
歴史
ロシア帝国時代
現在ドンバスとして知られる地域は17世紀後半ドン・コサックが定住するまで広範囲にわたって無人だった。Solanoye[4]
(現、ソレダルウクライナ語: Соледар)と呼ばれた最初の町は1676年に拓かれた。そこは新たに発見された岩塩採掘場(rock-salt reserves)開発の儲かる商売のために建設された。
荒野(あれの)として知られ、現在ドンバスと呼ばれるその地域は18世紀の半ば、ロシア帝国が征服・併合するまで、広くウクライナ人のヘーチマン国家とトルコ人のクリミア・ハン国の支配下に置かれた。ロシア帝国に征服された領域は新ロシア(ロシア語: Новороссия)と呼ばれた。
産業革命がヨーロッパ中に定着するに伴い、19世紀中後半、その地域の膨大な石炭資源(1721年に発見)の開発が始まった。
「ドンバス」という名前がドネツ炭田(ウクライナ語: Донецький вугільний басейн、ロシア語: Донецкий каменноугольный бассейн)からの派生語と見做して、最も多くの石炭埋蔵量が発見されたドネツ川沿いの地域を表す用語として使用され始めるのはこの頃からである。
石炭産業の隆盛(その多くはロシア人住人の手によるものだった)はこの地域に顕著な人口増加をもたらした。
その地域はエカテリノスラフ県の
Bakhmut[4]、
Slovianserbsk[4]
及びマリウポリ諸郡に支配された。
今日、地域の最も重要な都市であるドネツィクは1869年にイギリスの実業家、ジョン・ヒューズによって
Oleksandrivka[4]
のザポロジアン・コサックの町があった場所に創設された。ヒューズは製鉄所と幾つかの炭鉱を設立した。町は彼の名前をとってユゾフカ(ロシア語: Юзовка)と名付けられた。ユゾフカおよび同様の町の発展にともない、ロシア帝国のグベールニヤ(県)から大勢の土地を持たない農民が仕事を求めてやってきた。
1897年のロシア帝国の国勢調査によれば、地域人口の52.4%がウクライナ人であり、28.7%がロシア人だった。
ギリシア人、
ドイツ人、
ユダヤ人、
タタール人もまたドンバス地域とりわけマリウポリ地区(そこでは人口の36.7%を占めた)において重要な存在だった。
にもかかわらず、ロシア人は産業労働力の多数派をなしていた。ウクライナ人は周辺(農村)地域を支配したが、都市にはしばしば、地域の重工業に職を求めてやってきたロシア人だけが居住した。職を求めて都市に流入したウクライナ人はロシア語を話す労働者階級に素早く吸収されてしまった。
ソビエト時代
ウクライナ人が居住した他の地域と共にドンバスは1917-1922年のロシア内戦の結果誕生したウクライナ・ソビエト社会主義共和国に統合された。その地域のウクライナ語を話すコサックたちは1919-1921年の間、脱コサック化を強制された。
ドンバスにいたウクライナ人は1932年から1932年にかけてのホロドモール飢饉およびヨシフ・スターリンのロシア化政策によって大きな影響を受けた。ほとんどのウクライナ人は農村の小地主農民(ソビエト体制ではクラークと呼ばれた)に過ぎなかったので、飢饉の大きな被害を受けた。
在英ウクライナ人協会によれば、飢饉の結果、今のルハーンシク州では人口が25%まで減少し、今のドネツィク州では15-20%にまで減少した。ある推定によればウクライナ社会主義共和国内の飢饉の間、死者の81.3%がウクライナ人、対してロシア人の死者は僅か4.5%だった。
ドンバスは第二次世界大戦で甚大な影響を受けた。
戦争に至るまでの間、ドンバスは貧困と食料不足に苦しめられた。戦争準備は結果として工場労働者の出勤日の増加をもたらし、高められたノルマを達成できない者は逮捕された。第3帝国の指導者アドルフ・ヒトラーはドンバスの資源がバルバロッサ作戦にとって決定的に重要と見ていた。このようにして、ドンバスは 1941年から1942年に至るナチ占領下で苦しめられた。数千人に及ぶ工場労働者が工場で働かせるために強制的にドイツに「輸出」された。当時のスター リノ州、今のドネツィク州では占領の間に27万9千人の市民が殺された。ヴォロシーロフ州、今のルハーンシク州では4万5649人が殺された。
1943年の赤軍による攻勢は結果としてドンバスに対するソビエトの支配を回復した。戦争の代償は高く、破壊され人が住まない地域が残された。
第二次世界大戦後のドンバスの再建期間中、多数のロシア人労働者がやって来て、人口割合がさらに変動した。1926年に63万9千人のロシア人が住んでいた。1959年までにロシア人人口は2倍以上[5]の255万人になった。ロシア化は1958-1959年のソビエトの教育改革によってさらに進展した。それはドンバスにおけるウクライナ語の学校教育をほぼ消し去るものだった。
1989年ソ連国勢調査ではドンバスの人口の45%がロシア人であると報告された。
独立ウクライナ時代
ウクライナ独立に関する1991年国民投票では、有権者の内、ドネツィク州で83.9%(投票率76.7%)、ルハーンシク州で83.6%(投票率80.7%)がソビエト連邦からの独立を支持した。
しかしながら独立は結果的にドンバスに深刻な経済的悪化をもたらした。1993年までに産業生産は崩壊し、平均賃金は1990年比80%にまで低下した。
キーイウ(キエフ)の新中央政府が冒した数多くの管理ミスと怠惰のせいで、ドンバスは危機に陥った。
ドンバスの採炭業者は1993年に国内紛争(歴史家Lewis Siegelbaum が言うところの「ドンバス地域と他の地域との争い」)を巻き起こしながらストライキを行った。
あるストライキ指導者が言ったように、
ドンバスの人たちは地域や企業や諸都市に権限移譲して欲しいから独立に賛成したのであって
ただモスクワからキーイウ(キエフ)に移っただけの高度に中央集権化された政府を望んだわけではない。
このストライキはドネツィク・ルハーンシク両州の様々な憲法上の諸問題に関する意見聴取の住民投票(独立ウクライナの最初の議会選挙と同時に行われた)が行われた1994年まで続いた。これらの諸問題には
ロシア語がウクライナの公用語として採用されるべきかどうか、ドネツィク・ルハーンシク両州でロシア語が行政言語であるべきか否か、ウクライナが連邦化(federalise)されるべきかどうか、ウクライナが独立国家共同体と密接に結びつくべきかどうか、といった諸点が含まれる。
投票者の90%近くがこれらの提案に賛成した。しかし、いずれも採択されなかった。
ウクライナは単一国家に留まり、ウクライナ語は唯一の公用語として維持され、ドンバスにはいかなる自治権も与えられなかった。しかし、ドンバスのスト参加者達は地域の経済危機に対する緩和策を考慮されるなど、キーイウ(キエフ)から多くの経済的譲歩を得た。
小規模なストライキは90年代を通じて続いたが、自治に対する要求は終息していった。
ドンバスの重工業に対するいくつかの補助金は廃止され、世界銀行による自由化改革を後押しするために多くの炭鉱がウクライナ政府によって閉鎖された。
1994年ドンバスと東ウクライナの他の地域からの支持で当選したレオニード・クチマ ウクライナ大統領は1999年に再選された。
クチマは地域内の政治的支援を得るために、開発資金を用いてドンバスに経済的援助を与えた。
2000年代初めにドンバス内の権力は
オリガークス(origarchs; ウクライナ語: олігархи オリハルフィー)と呼ばれる一部の政治的エリートに集中した。国有産業の私有化は腐敗の蔓延を招いた。
郷土史家のHiroaki Kuromiyaは地域の経済力、政治力を支配する人々のグループであるこのエリートを「ドンバス・クラン(Donbass clan)」として描写した。「クラン」の著名なメンバーには
ヴィクトル・ヤヌコーヴィチとリナット・アクメトフ
が含まれる。オリガークスの形成は腐敗と結びつき、 ウクライナ内でドンバスが最も非民主的かつ最も邪悪な地域との認識を導いた。
2000年代、ウクライナの他の地域から見て、ドンバスは「チンピラ文化(thug culture)」を持ち、
「ソビエトの糞貯め(Soviet cesspool)」であり、後進的である、と認識されていた。
2005年Narodne slovo[4]新聞に書かれているようにコメンテーターのViktor Tkachenko[4] がドンバスは「第五列」の巣窟であり、その地域でウクライナ語を話す事は「健康と生命にとって安全ではない」と発言した。
また、親ロシア派分離主義の策源地であるように描かれた。ドンバスはウクライナの他の地域と比べて共産主義者の名前を採って名付けられた都市や村の数が顕著に多い。
この様な描写にも拘らず、1990年代から2000年代に行われた調査ではドンバスがウクライナの他の地域への強力な支援を行ない、逆に分離主義者を冷淡に取扱った事が示された。
ドンバスにおける内戦(2014年から現在)
2014年2月のウクライナ革命とユーロマイダン運動の余波の一部として、3月初頭からドンバスで親ロシア・反政府グループのデモが起きた。これらのデモ(ロシア連邦によるクリミア併合に先立つものであり、南部および東部ウクライナ中で同時発生した親ロシア派の抗議運動のより広範なグループの一部だった)は2014年4月、分離主義武装勢力(ノヴォロシア人民共和国連邦)とウクライナ政府の戦争にエスカレートした。
内戦の最中、分離独立派の共和<国>は2014年5月11日にドネツィク・ルハーンシク両州の地位に関する住民投票を実施した。この住民投票はウクライナ中央政府を排除した自治を望ましいとする結果に回帰した(一方で住民投票はウクライナからは非合法そして国際社会からは非民主的であると見なされている)。幾度も停戦が試みられたが、2014年を通して、そして2015年になっても戦闘は続いた。ロシアは否定しているが、ウクライナと西側諸国はロシアが分離独立派に物資支援と軍事支援の双方を供与していると主張している。分離独立派は2014年8月まで大部分がロシア市民により先導されていた。
人口統計と政治
現在、ドンバスは大部分がロシア語使用地域である。
ドンバスでは重要なロシア人少数派が居住しているが、
ウクライナ人が人口の多数派をなしている。
2013年-2014年のウクライナ危機以前、地域の政治は
「地域党」(2008年のウクライナ議会選挙でドンバスでの得票率はおよそ50%)によって支配されていた。
前大統領ヴィクトル・ヤヌコーヴィチをはじめとする党の主要メンバーはドンバス出身だった。
ロシア起源の住民たちは、主に大都市の中心部に集中していた。大都市とりわけドネツィク、ルハーンシク両州においては母国語としてロシア語が優勢である。
ロシア語はまた多くのウクライナ人に共通語として使われている。
東ウクライナの諸都市においてロシア語が重要性になったのは産業化の過程で、多くのロシア人が(特にクルスク州から)この地域に新たに創設された都市に移住したためである。
農村地帯(ソビエト連邦成立の余波でウクライナ人は移住を強制され、スターリン政権による計算された体系的、組織的な飢饉で死を余儀なくされた)へのロシア語の拡大は今も続く研究論争のテーマであるがこれら2州では通常、調査は完全に拒否された。
ほぼ全てのユダヤ人は、逃亡しない限り、第二次世界大戦中のドイツ占領期間中に一掃された。母国語としてロシア語を示すウクライナ人と他国人がいるので母国語としてロシア語を話す人の比率はロシア人の比率より高かった。その比率はドネツィク州で74.9%、ルハーンシク州で68.8%であり、2001年時点での少数派ロシア人の割合はドネツィク38.2%、ルハーンシク39%だった。
ドンバスには比較的大きなムスリムのコミュニティーがあり、いくつかの地域では人口の20%に達する。
言語学者George Shevelov[4]によればソビエト連邦はウクライナ社会主義共和国内のすべての学校にウクライナ語で話すべきだと命じた(ウクライナ化政策の一部として)にも関わらず、1920年代初頭ウクライナ語を教える中学校の割合はドンバスのウクライナ人の割合より低かった。ウクライナで行われた地域的アイデンティティーの調査によればドンバス住民のほぼ40%が「ソビエトアイデンティティ」を持つと回答している。
Södertörn University[4]大学のRoman Horbyk[4]がいうところの「不完全かつ廃れたな制度」はドンバス住民(20世紀に周辺からやって来た農民)がその時代繁忙を極めていた鉱山や工場(ウクライナ人領域とロシア人領域の境界にあった)へ流入する事を妨げ、顕著に強い現代的郊外(それは全国的(national)であり、新しいアイデンティティでもある)を獲得する事を妨げた。
経済
主記事 ウクライナの石炭
ドンバスは重工業とりわけ採炭と金属冶金が優勢だった。石炭の年間採掘量は、1,970年代以来減少したが、、ドンバスは重要な供給者として生き延びた。ド ンバスの採炭は大変深い深度に達している。褐炭採掘は地表下およそ600メートルで行われる。より価値のある無煙炭、瀝青炭はおよそ1800メートルで採掘される。2014年4月のドンバス内戦前、ドネツィク、ルハーンシク2州合わせてウクライナの輸出の30%を産出していた。
石炭産業における労働安全
採炭深度が深くなっているため、また、しばしばメタン爆発、炭塵爆発、岩盤崩落(rock burst)の危険があるため、更に、時代遅れのインフラによってドンバスの炭鉱は世界中で最も危険な部類に入る。より危険な非合法の炭鉱ですら、2000年代後半には地域中に蔓延した。
環境問題
ドンバスへの採炭と製錬の集中は、地域の環境に深刻なダメージをもたらした。
その地域を巡る最も普遍的な問題は
- 水供給の破綻と鉱水(mine water)に起因する洪水
コークス工場と製鉄所周辺の目に見える大気汚染- 空気・水の汚濁とボタ山発の泥流の脅威
加えて、ドンバスの化学廃棄物(chemical waste)処理施設は保全されず、環境に対する継続的な脅威をもたらしている。
極めて特異な脅威は核採掘(nuclear mining)を実験したソビエト時代のイェネキイェヴェでの1979プロジェクトの悪影響である。
世論
2015年11月にドネツィク、ルハーンシク州(親ロシア派占拠地域を除く)のRating Group Ukraineによって行われた調査では住民の75%がドンバス全体がウクライナに留まることを望んでいる事が判明した。7%はロシアへの併合を、1%はドンバスが独立国になる事を、3%は親ロシア派テロリストが出て行き、ドンバスはウクライナに留まる事を選択した。
ロシア語を話す住民に圧力または脅威下にあるかを尋ねた調査では、82%は「いいえ」、11%は「はい」だった。ウクライナのロシア語話者を「保護」するためにロシアが派兵する事を支持するかを尋ねた調査では、71%が「いいえ」2%は「ある程度は」、7%は「その他」だった。
50%はウクライナは単一国家を維持する事を望み、14%は連邦制国家を、13%はクリミアを除いた単一国家を、7%は複数の国家に分割する事を望んでいた。
いずれかを選択するよう尋ねたところ、33%はユーラシア関税同盟を21%はEUを選好した。
訳注
^ Дон + бас(с)で Донбас(с)
^ この2州の面積は九州と四国の面積に相当する
- ^ ab国際的には国家として承認されていない。誤解を避けるために<国>と表記した
- ^ abcdefghiカナ表記分からないので原文ママ
^ ほぼ4倍である
関連項目
- ドネツ川
- ドネツィク
ドネツィク州 - ルハーンシク州
- ドンバス・アリーナ