東京高等師範学校
東京高等師範学校 (東京高師) | |
---|---|
創立 | 1886年 (「高等師範学校」として) |
所在地 | 東京市神田区 |
初代校長 | 山川浩 |
廃止 | 1952年 |
後身校 | 東京教育大学 (現・筑波大学) |
同窓会 | (社)茗溪会 |
東京高等師範学校(とうきょうこうとうしはんがっこう)は、1886年(明治19年)4月、東京市神田区(現在の東京都文京区[1])に設立された官立の高等師範学校(旧制教育機関)である。略称は「東京高師」(とうきょうこうし)。
この項目では、その前身であり、1872年(明治5年)に設立された「(東京)師範学校」についても扱う。
目次
1 概要
2 沿革
2.1 東京師範学校
2.2 東京高等師範学校
3 年表
3.1 「師範学校」時代 (1872-73)
3.2 「東京師範学校」時代 (1873-86)
3.3 「高等師範学校」時代 (1886-1902)
3.4 「東京高等師範学校」時代 (1902-49)
3.5 「東京教育大学東京高等師範学校」時代 (1949-52)
3.6 附属学校
3.7 教員養成所
4 歴代校長
5 校地の変遷と継承
6 著名な出身者・教員
7 校史アラカルト
8 脚注
9 参考文献
10 関連文献
11 関連項目
12 外部リンク
概要
1886年4月、日本初の中等教員養成機関「高等師範学校」として設立され、1902年4月東京高等師範学校に改称された。その前身は、日本で最初に設立された官立の教員養成機関「師範学校」(のち東京師範学校と改称)である。1929年4月、東京高師の大学昇格運動の結果旧制大学たる東京文理科大学が設立されるとその附置機関となった。修業年限3年(本科)で学科としては文科・理科・体育科が設置され、附属学校として附属小学校・附属中学校なども附設された(1940年時点)。廃止時には広島・金沢・岡崎と並ぶ官立4高師の一つであった。
設立当初から「教育の総本山」と称され、長らく広島高師とともに近代日本の中等教育界に大きな影響力を有する存在であり続け、また長期にわたり校長を務めた嘉納治五郎の下で日本の学生スポーツ濫觴の場となったことでも知られている。
戦後の学制改革により1949年5月、新制東京教育大学が発足すると、旧制東京文理科大学および旧制専門学校たる旧制東京農業教育専門学校・旧制東京体育専門学校とともに同大学に包括されてその教育学部などの構成母体となり、1952年廃止(その後東教大は筑波大学に改組され現在に至っている)。東京高師の附属小・附属中学は、それぞれ東教大の附属小学校および附属中学校・高等学校となった(現在の筑波大学附属小学校、筑波大学附属中学校・高等学校の前身)。
また、もともと東京高師の同窓会として結成された「茗渓会」は東京高師を継承する東京文理大・東教大・筑波大の共通の同窓会となっている。
沿革
東京師範学校
1872年5月(明治5年4月)、文部省は学制公布(同年9月(旧暦8月))に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視し正院に「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出した。この「伺」が正院による認可を受けたことで同年7月4日(旧暦5月29日)、「師範学校」が東京府下に設立されることが決定され、同時に生徒募集が広く布達された。学制公布後の9月(旧暦7月末)に諸葛信澄を初代校長として開校された「師範学校」は、師範教育に詳しいアメリカ人教育者M・M・スコットを教員に招聘し、教員・教具すべてをアメリカから取り寄せたのみならず、アメリカの小学校の教授方法をそのまま導入して小学校教員の養成を進めた。この時期の「師範学校」は日本最初の(小学)教員養成機関として、将来全国に設立されるべき教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たし、校内「編輯局」による全国の小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国の小学校の教則の範例となるべき「小学教則」の編成などが行われた。また開校翌年の1873年(明治6年)7月に送り出された第1回の「師範学校」卒業生は、各府県の教員養成機関の訓導あるいは府県庁の学務担当吏員となって新たな教授法・教育課程を全国に普及させることに尽力した。また同時期に初めて設立された「練習小学校」(附属小学校)も、新しい教授法を実験・練習するための施設であると同時に、全国に設立されつつある小学校のモデル校ともなった(現在の筑波大学附属小学校の起源)。
1873年8月、東京以外の6大学区にも官立師範学校(大坂・宮城・愛知・広島・長崎・新潟)が設立されると、東京の「師範学校」は「東京師範学校」と改称した。この時期になると全国的な小学校教員の養成もようやく軌道に乗り、米人教師スコットが辞任したのちは原則として日本人教師が教授することとなった。次には小学校に接続する中等学校の教員に対する社会的需要が高まってきたことを受け、1875年8月には東京師範学校に中等教員養成のための「中学師範学科」が設置された。そして1878年までに東京・東京女子以外の官立師範学校6校が西南戦争時の財政難により廃校に追い込まれ、小学教員の養成が府県立師範学校に担われるようになると、東京師範学校は次第に中等学校教員の養成機関へと変化していくこととなった。しかしその一方で新しい小学校教育法の導入も続けられ、1878年に師範教育研究のためのアメリカ留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫らを中心にペスタロッチ主義による教育方法の普及が1882年から翌1883年にかけての「小学師範学科教職員講習」を通じて行われた。1885年には東京女子師範学校(およびその附属学校園)を統合して「女子部」とし、東京師範は全国唯一の官立師範学校となるに至った。
東京高等師範学校
1886年(明治19年)4月の師範学校令により尋常師範学校と区別される高等師範学校が制度化されると、東京師範学校は「高等師範学校」へと改称・改組されて全国唯一の高等師範学校となり、初代校長には現役の陸軍軍人(歩兵大佐)であった山川浩が就任した。この学校は文部大臣管轄下で国費によって運営される官立学校であり、小学校教員の養成にあたる尋常師範学校の校長・教員の養成を中心に中等学校教員養成を担うものとされた。同年10月には学科などの制度が規定され、修業年限3年で尋常師範学校卒業者を対象とする「男子師範学科」、修業年限4年で尋常師範学校第2学年修了者を対象とする「女子師範学科」から成るものとされたが、後者は1890年(明治23年)に「女子高等師範学校」(のち東京女子高等師範学校と改称)として分離独立した。また同時に生徒募集・学科構成・卒業生の服役義務などは文部大臣が定めるところによるものとされ、高等師範学校の運営は他の尋常師範とともに国家の強力な支配の下に置かれることとなり、この結果、高師は山川校長の下で忠君愛国教育の推進の要として寄宿舎生活から服装に至るまで完全に軍隊化された。さらに師範学校令に代わる師範教育令(1897年(明治30年)公布)に基づき、高師は師範学校(尋常師範学校を改称)・尋常中学校・高等女学校など広く中等学校全般の教員養成機関として位置づけられるようになり、これに相応しい学科・課程が整備された。これ以降、本校は全国の中等学校に教員を供給し続け、1882年(明治15年)に発足した同窓会「茗渓会」を通じ戦前期の中等教育界に大きな影響を及ぼすこととなった。
1902年(明治35年)、第2の官立高師が広島に設立されると高等師範学校は「東京高等師範学校」と改称、1911年(明治44年)には広島を含む高師卒業者を対象とする「専攻科」が設置された。また1890年(明治23年)以降1920年(大正9年)に至るまで3度にわたり校長に就任した嘉納治五郎の下で「軍隊化」方針が一部緩和されスポーツ活動を通じた人材育成が進められた結果、日本の学生スポーツ濫觴の場となり、特に第一次大戦後に日本のスポーツが世界に飛躍していく基礎が築かれることになった。
1918年(大正7年)の大学令の制定以降、第一次世界大戦後の政府の高等教育拡充政策の中で多くの高等教育機関(旧制専門学校)が大学への昇格を果たす中、東京高師においても、校友会が「吾人はすでに忍ぶべきを忍び堪うべきを堪えたり。今や我らは起りて死力を尽して目的の貫徹に努むるのみ」と宣言し、教授会、茗渓会と連携し、「教育尊重、精神文化の宣揚」をスローガンに掲げ大学昇格運動が高揚した[1]。
この結果、高師専攻科を母体として官立単科大学が設立されることとなり、1929年(昭和4年)東京文理科大学として発足したが、この際、政府や議会の審議で教員養成を専門とする師範大学か、あるいは研究に重点を置く単科大学かについて論争が生じ、結局後者の意見が通り文理学部のみを置く文理科大学として実現をみたという経緯があった。したがって東京高師は東京文理科大学に昇格し(吸収され)たのではなく、文理大に附置されるという形でそのまま存続したため、このことはその後の高師と文理大との関係に微妙な影を落とすこととなった。
さらにこの時期には、各府県の師範学校の本科に中等教員養成のための「第2部」が設置されるようになり、また大学令によって大学に昇格した私学においても同様の高等師範部の設置が認められ、これらが拡充整備されるに伴って中等学校教員養成機関としての東京高師(および広島高師)の比重は相対的に低下せざるを得ず、1929年(昭和4年)以降の大恐慌のなかで生じた財政難を理由に東京高師と東京文理大はしばしば文部省サイドからの廃止論に直面することとなった。こうした状況を打開するため、高師および茗渓会は文理大をフランスのエコール・ノルマルに範をとった師範大学に改編するようたびたび運動したが、これは研究を重視する文理大との対立を生じることとなった。また1932年(昭和7年)、高師の3年修了者にも大学進学が認められると、以降高師は文理大の予科化の傾向をたどった。
第二次世界大戦後、高師・文理大を中心にその他の教員養成機関との統合により新制大学が設置されることが決まると、新設されるべき大学におけるイニシャティヴを巡り両校の抗争が再燃した。すなわち文理大が一般教養と教職的教養を両立する「文理科大学」構想を掲げたのに対し、高師は新大学を教員養成の最高機関とする「教育大学」構想を打ち出して東京農業教育専門学校・東京体育専門学校と連合し両者共に譲らず、このような対立抗争が新たに発足した東京教育大学の初期の大学運営に大きく影響することとなった。1949年(昭和24年)5月、新制東京教育大学の発足とともに高師は同校に包括され、1952年(昭和27年)名実ともに廃止となった。
年表
「師範学校」時代 (1872-73)
- 1872年(明治5年)
- 5月28日(旧4月22日)- 文部省、小学教師教導場建立の伺いを正院に提出。
- 6月15日(旧5月10日)- 正院から認可。
- 7月4日(旧5月29日)- 文部省、東京に師範学校の設置を決定。
- 9月1日(旧7月29日)-「師範学校」として開校。
- 9月(旧8月)- 入学試験を実施し、合格者54人の入学を許可。
- 10月(旧9月)- 授業を開始。
- 1873年(明治6年)
- 1月 - 「練習小学校」を附設(筑波大学附属小学校などの起源。以下後述)。
- 6月 - 本科・予科の学科を設置。本科は修業手限1年の師範科、予科は余力あるものに高度な普通教育を授けるものとした。
- 7月 - 最初の卒業生を出す。
「東京師範学校」時代 (1873-86)
- 1873年(明治6年)
- 8月 - 7大学区での官立師範学校設立に伴い「東京師範学校」と改称。
- この年 -「小学教則」を編纂。
- 1874年(明治7年)
- 4月 - 教則を改正し本科・予科の名称を廃止、在学期限を2年とした。
- 8月 - 米人教師M・スコットが辞任。
1875年(明治8年)
- 3月 - 「予科教則」を制定。
- 7月 - 予科教則を廃止。予科生徒の代わりに試験生を置く。
- 8月13日 - 中学師範学科を設置(翌1876年(明治9年)4月、生徒60名が仮入学)。
- 修業年限は小学師範学科と同じく2年。中学校教員養成を目的とし、高等師範学校による中等学校教員養成の起源となった。
- 1877年(明治10年)7月 - 修業年限を小学師範学科2年半、中学師範学科3年半に改定。
- 1878年(明治11年)- 伊沢修二・高嶺秀夫が留学から帰国し校長補・校長補心得に就任。
- 1879年(明治12年)2月 - 教則改正により予科2年、高等予科2年、本科1年の修業年限とした。
- 小学師範学科は予科より本科への入学、中学師範学科は予科・高等予科を経て本科への入学とした。
- 1880年(明治13年)- 「生徒寄合会」が結成。
- 1882年(明治15年)
- 4月29日 - 卒業生により「東京茗溪会」の結成。
- この年から小学師範科教職員の講習を実施(1883年(明治16年)まで)。
- 1883年(明治16年)
- 8月 - 「小学師範学科改正教則」を定め師範学校教則大綱に基づく高等科のみを教授することとした。
- 9月 - 中学師範学科改正教則を定め、初等中学師範学科と高等中学師範学科とに分けた。
- 初等中学師範学科の修業年限を4年とし、高等中学師範学科はこれを当分設置しないこととした。
- 1885年(明治18年)
- 8月27日 - 東京女子師範学校を併合し「女子部」を設置。
- 12月 - 体操伝習所を東京師範学校附属とする。
「高等師範学校」時代 (1886-1902)
- 1886年(明治19年)
- 4月29日 - 師範学校令に基づき「高等師範学校」として改編・設立。
- 中等学校と小学校の教員養成を併せ行ってきた従来の制度を改め尋常師範学校教員の養成を中心とする機関とした。
- 附属体操伝習所を廃止し体操専修科を設置。
- 10月14日 -「高等師範学校ノ学科及其程度」・高等師範学校生徒募集規則・高等師範学校卒業生服務規則を制定。
- 男子師範学科(修業年限3年で尋常師範学校卒業者が対象)・女子師範学科(同4年で尋常師範学校第2学年修了者が対象)を設置。男子師範学科は教育学・倫理学・英語・音楽体操その他、女子師範学科は倫理・教育・国語漢文・英語・数学簿記・地理歴史・博物・物理化学・家事・習字図画・音楽・体操の学科目をそれぞれ設置。
- 4月29日 - 師範学校令に基づき「高等師範学校」として改編・設立。
- 1889年(明治22年)7月 - 教育博物館(国立科学博物館の前身)を附属施設とする。
- 1890年(明治23年)
- 3月25日 - 女子師範学科を分離し女子高等師範学校を設立。
- 9月 - 寄宿舎を軍隊的分団組織にする。
- 1893年]明治26年)6月 - 東京音楽学校を附属校とする。
- 1894年]明治27年)
- 4月6日 - 従来の理化学科・博物学科・文学科の学科区分を改め文科・理科の2学科を設置。
- 文科・理科の共通科目として倫理・教育学・国語・英語・体操、文科のみの科目として漢文・歴史・地理・哲学・経済学と随意科目として独語・習字を置き、理科のみの科目として数学・物理・化学・地学・植物・動物・生理・農業・手工を設置。
- この年 - 大運動会を開催し柔道部を創設。
- 4月6日 - 従来の理化学科・博物学科・文学科の学科区分を改め文科・理科の2学科を設置。
- 1895年(明治28年)- 高師寄宿舎の軍隊的分断組織を廃止。
- 1896年(明治29年)
嘉納治五郎校長、運動部を統括する「運動会」を結成し初代会長に就任。
- 初期の運動部としては柔道部のほか、撃剣部・弓技部・器械体操部・相撲部・ローンテニス部・フートボール部・ベースボール部・自転車部・ボート部・徒歩部・游泳部・卓球部・ラ式フートボール部があった。
- 高師、清国留学生の教育を引き受ける。
- 1897年(明治30年)- 師範教育令に基づき尋常中学校・高等女学校教員の育成も担当。
- 1898年(明治31年)
- 4月 - 文科・理科を細分化し6部構成とする。
- 文科には教育学部・国語漢文部・英語部・地理歴史部、理科には理化数学部・博物学部を設置。学科目は倫理・教育学・国語・英語・体操の共通科目のほかは各部独自な科目を設置。
- この年 - 第1回長距離走大会の開催。また庭球部が高等商業学校(一橋大学)と対抗戦を開催。
- 長距離走大会は1901年に第2回が開催され以降毎年の開催となった。また高商との対抗戦は日本テニス史上初の対抗戦となった。
- 4月 - 文科・理科を細分化し6部構成とする。
- 1899年(明治32年)4月 - 東京音楽学校が分離独立。
- 1900年(明治33年)
- 1月 - 文科・理科の区分を廃止して予科1年・本科3年・研究科1年の課程とし、他に専修科(3年)・撰科を設置。
- 本科を四学系(語学系・地歴系・数物化学系・博物系)の構成とし、学科目はさらに細分化。
- 5月2日 - 同窓会「茗渓会」が主務官庁を文部省として法人登録し社団法人となる。
- 1月 - 文科・理科の区分を廃止して予科1年・本科3年・研究科1年の課程とし、他に専修科(3年)・撰科を設置。
- 1901年(明治34年)- 嘉納校長、運動会などの課外活動を「校友会」に改組し初代会長に就任。
「東京高等師範学校」時代 (1902-49)
- 1902年(明治35年)4月 - 広島高等師範学校設立に伴い「東京高等師範学校」と改称[2]。
- 1903年(明治36年)1月 - 高等師範学校規程中の改正により本科を5部構成とする。国語漢文部・英語部・地理歴史部・数物化学部・博物学部を設置。
- 1905年(明治38年)- 初めて自費生の入学が許可される。
- 1911年(明治44年)4月 - 東京・広島2高師の卒業者を対象に修業年限2年の専攻科を設置。(のちの文理科大学設立の母体)
- 1914年(大正3年)6月 - 附属教育博物館を分離し、「東京教育博物館」として独立。
- 1915年(大正4年)2月 - 高等師範学校規程の改正により学科を文科・理科・特科(体育科)を設置。共通科目として修身・教育学・心理学・論理学・国語・英語・体操など。
- 1919年(大正8年)- 東京高師の大学昇格運動開始。
- 1921年(大正10年)- 体育科が文科・理科と対等の本科となる。体操・遊戯・競技、柔道、剣道の3専攻を設置。
- 8月 - 講堂において大日本学術協会主催の「八大教育主張講演会」開催。
- 1922年(大正11年)4月10日 - 臨時教員養成所を附設(第一臨時教員養成所、以下後出)。
- 1923年(大正12年)9月 - 関東大震災で文部省と東京女子高等師範学校が焼失したため、文部省は本館内に仮事務所を設け、女高師は東西両館に仮教室を開いた。
- 1929年(昭和4年)4月1日 - 東京文理科大学設立によりこれに附置される。
- 1932年(昭和7年) - 3年修了者に大学への進学が認められることになった。
- 1943年(昭和18年)3月8日 - 師範教育令中改正により修業年限4年となる。
- 師範学校は旧制専門学校と同格となったため、その教員は養成の対象から除外され、中学校および高等女学校のみの教員養成にあたることになった。
「東京教育大学東京高等師範学校」時代 (1949-52)
- 1949年(昭和24年)5月 - 新制東京教育大学設立により包括。東京教育大学東京高等師範学校と改称。
- 1952年(昭和27年)- 廃止。
附属学校
本校の改称に伴う附属校名の改称は省略。
- 1873(明治6年)1月 -「練習小学校」を附設(筑波大学附属小学校の起源)。
- 1888年(明治21年)- 練習小学校を「附属学校」と改称し小学科・尋常中学科を設置。
- 「尋常中学科」は筑波大学附属中学校・高等学校の起源。
- 1896年(明治29年)- 附属学校の尋常中学科を分離し「附属尋常中学校」を設置。
- 1899年(明治32年)- 附属尋常中学校を附属中学校と改称。
- 1941年(昭和16年)- 国民学校令により、附属小学校を附属国民学校と改称。
- 1947年(昭和22年)- 学制改革により、附属中学を新制の附属中学校・高等学校、附属国民学校を附属小学校に改編改称。
- 1949年(昭和24年)- 東京教育大学附属となる。
教員養成所
- 1922年(大正11年)4月10日 - 臨時教員養成所を附設(第一臨時教員養成所)。国語漢文科・英語科・数学科・歴史地理科・体操科を設置。
- 1930年(昭和5年)- 臨時教員養成所の廃止。こののちしばしば再設置・廃止をくり返す。
- 1940年(昭和15年)- 傷痍軍人中等教員養成所を附設。臨時教員養成所が再び附設。
- 1944年(昭和19年)- 傷痍軍人中等教員養成所を廃止。
- 1945年(昭和20年)- 特設中等教員養成所を附設。
- 1948年(昭和23年)- 臨時教員養成所・特設中等教員養成所を廃止。
歴代校長
- 師範学校学長・東京師範学校長
諸葛信澄(1873年6月15日 - 1875年4月)[3] - 大阪師範学校長に転出。
- 1873年8月:師範学校を東京師範学校と改称。
- 1873年11月2日:学長を学校長と改称[4]。
- 1875年4月27日 - 5月22日:教諭小沢圭二郎が校長心得[5]。
- 1875年5月4日 - 1877年2月21日:箕作秋坪が摂理[6]。 - 依願退任(のち教育博物館長)。
- 1875年5月22日 - 1877年8月31日:小沢圭二郎が校長補[5]。 - 前教諭。訓導に転任。
秋山恒太郎(1877年2月 - 1878年10月)[7] - 元長崎師範学校長。依願退任(のち静岡県浜松中学校長)。
- 1878年10月16日 - 1879年3月22日:伊沢修二が校長補(途中から体操伝習所主幹を兼任)[8]。
伊沢修二(1879年3月22日 - 1881年6月2日)[8] - 前校長補兼体操伝習所主幹。文部少書記官に転出。
- はじめ体操伝習所主幹を兼任。
- 1879年3月28日 - 1881年7月6日:訓導高嶺秀夫が校長補兼任[9]。
高嶺秀夫(1881年7月6日 - 1886年3月6日)[10] - 前訓導兼校長補。専任教諭に転任。
- 教諭兼任。
- 1881年6月23日 - 1885年8月26日:文部省御用掛西周が校務嘱託[11]。
- 1885年8月26日 -:文部省御用掛森有礼が監督[12]。
山川浩(1886年3月6日 - 4月)[13]- 兼官(歩兵大佐→陸軍歩兵大佐、本職陸軍省総務局制規課長)。
- 高等師範学校長・東京高等師範学校長
山川浩(1886年4月29日 - 1891年8月13日) - 依願退任。
- 兼官(陸軍歩兵大佐、本職陸軍省総務局制規課長)→本官(陸軍少将、途中から貴族院議員)。
- 1891年8月13日 - 16日:教授高嶺秀夫が校長心得。
高嶺秀夫(1891年8月16日 - 1893年9月9日) - 前教授。依願退任(のち帝国博物館理事)。
- 教授兼任。
- 1893年9月13日 - 20日:文部省参事官嘉納治五郎が校長心得。
嘉納治五郎(1893年9月20日 - 1897年8月20日) - 前第一高等中学校長兼文部省参事官。非職により退任(のち校長再任)。
- 文部省参事官兼任。
河内信朝(1897年8月20日 - 11月19日) - 前山口県尋常師範学校長。文部書記官に転出。- 嘉納治五郎(1897年11月19日 - 1898年6月20日) - 元校長。専任文部省普通学務局長に転出。
- 途中から普通学務局長を兼任。
矢田部良吉(1898年6月20日 - 1899年8月8日) - 前教授兼附属音楽学校教授。在任中死去。
- 教授兼任。
- 1899年8月9日 - 30日:教授後藤牧太が校長事務取扱。
伊沢修二(1899年8月30日 - 1900年12月28日) - 元台湾総督府民政局事務官。依願退任。
- 貴族院議員。
- 1900年12月28日 - 1901年1月8日:教授後藤牧太が校長心得。
澤柳政太郎(1901年1月8日 - 5月9日)
- 兼官(本官文部省普通学務局長)。
- 嘉納治五郎(1901年5月9日 - 1920年1月16日) - 元文部省普通学務局長。依願退任(のち貴族院議員)。
1902年4月1日:高等師範学校を東京高等師範学校と改称。
三宅米吉(1920年1月16日 - 1929年4月1日、1929年4月13日-11月11日) - 前教授。
- 本官(教授兼任→教授・帝室博物館総長兼任→教授・宮中顧問官兼任)→兼任東京文理科大学教授から補職(本官同学長、宮中顧問官も兼任)。
- 1929年11月11日 - 12月6日:東京文理科大学教授松井簡治が校長事務取扱。
大瀬甚太郎(1929年12月6日 - 1934年1月16日)
- 兼任東京文理科大学教授から補職(本官同学長)。
森岡常蔵(1934年1月16日 - 1940年9月4日)
- 兼任東京文理科大学教授から補職(本官同学長)。
河原春作(1940年9月4日 - 1945年6月13日)
- 兼任東京文理科大学教授から補職(本官同学長、一時東京高等体育学校長→東京体育専門学校長も兼任)。
- 1945年6月13日 - 7月11日:文部次官河原春作が校長事務取扱。
務台理作(1945年7月11日 - 1948年7月31日)
- 兼任東京文理科大学教授から補職(本官同学長)。
杉村欣次郎(1948年7月31日 - 1949年7月31日)
- 兼職(本職東京文理科大学長、同教授も兼職)。
- 1949年5月31日:東京高等師範学校を東京教育大学東京高等師範学校に改組。
柴沼直(1949年7月31日 - 1952年3月31日)
- 兼職(本職東京教育大学長、東京教育大学東京文理科大学長も兼職、はじめ東京教育大学東京体育専門学校長・東京教育大学東京農業教育専門学校長も兼職)。
校地の変遷と継承
1872年、「師範学校」として設立された際、東京府下湯島の昌平黌(当時は東京府第四大区五小区宮本町。高師設立時は東京市神田区宮本町(現・文京区湯島一丁目)の敷地・校舎を使用していたが、1903年松平大学頭(陸奥守山藩)邸の跡地であった大塚(当時は東京市小石川区大塚窪町。現・文京区大塚三丁目))に移転し、同邸の名園であった「占春園」は校内の憩いの地として親しまれ、校長・嘉納治五郎の銅像が建立された。東京高師(および東京文理大)の大塚校地は後身校たる新制東京教育大学の本部キャンパスとして継承され、同キャンパスは東教大の筑波大学への改編以降、筑波大の東京キャンパス大塚地区や教育の森公園として整備された。
附属学校(小学校・中学校)は発足時には湯島の東京師範学校内に置かれたが、1890年には一ツ橋(東京市神田区一ツ橋通町、現・千代田区一ツ橋二丁目)に移転し、1904年から1909年にかけて東京高師の大塚新校地に再び統合された。その後附属中学のみ1940年に小石川区大塚町56(現・大塚二丁目)の新校舎に移転。両校は東京高師を引き継ぐ東京教大の筑波大への改組・移転を経たのちも従来からの大塚の校地に止まっており、先述の「占春園」および嘉納治五郎像も附属小の敷地内に残されている。
筑波大学東京キャンパス大塚地区(2009年) / かつての東京高師大塚校地。
筑波大学附属小学校内の嘉納治五郎像 / 銅像の立地する校内庭園はかつての東京高師の占春園であった。
著名な出身者・教員
東京高等師範学校では、授業料が無料だった。また、政府から金銭(学費と被服費)が支給された。その代わりに、卒業後は旧制中学・高等女学校(戦後の高校に相当)や師範学校(教員養成大学)などの教員になる義務があった。しかも、所定の年数(年数は時代や条件により変動する)は教員を辞めてはいけなかった[14]。帝国大学の授業料を払えない貧困家庭の優秀な人材が、授業料無料の高等師範学校に集まった。最終的に教員を目指さない者は、まず東京高等師範学校に入学・卒業し、教員として所定の年限を勤め終えてから、帝国大学に入学・卒業して、財界などで活躍した。例えば、東急グループの実質的創始者五島慶太などである。もちろん、そのような者は極めて少数であり、東京高等師範学校は財界では殆ど勢力が無かった。その反面、教育界では一番の勢力となった。昭和12年時点で、中等教育機関の校長の、68.4%は高等師範卒(東京高師以外の高等師範を含む)だが、帝国大学卒(全ての帝国大学を含む)は16.7%である[15]。
校史アラカルト
この節の加筆が望まれています。 |
脚注
^ 神田区の後身は千代田区であるが、1887年に校地のあった神田区宮本町のうち湯島聖堂・昌平坂学問所の場所が文京区の前身である本郷区に編入されたため。
^ 「文部省直轄諸学校官制中改正ノ件」(『官報』号外、1902年3月28日、勅令欄)。
^ 東京大学文書館所蔵 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 189丁表。橋本美保著 『明治初期におけるアメリカ教育情報受容の研究』 風間書房、1998年3月、ISBN 475991076X、199頁。
^ 前掲 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 554丁表。
- ^ ab小板橋二三男、進士五十八 「小澤圭次郎(醉園)の東京府立園芸学校に於ける造園教育について」(『ランドスケープ研究』第73巻第5号、日本造園学会、2010年3月、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
NAID 40017132536)787頁。
^ 「箕作秋坪御用掛被命ノ件」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治十四年・第百六十二巻」)。
^ 「青森県第一尋常中学校長秋山恒太郎外一名特旨ヲ以テ位記ヲ賜フノ件」(国立公文書館所蔵 「叙位裁可書・明治三十一年・叙位巻五」)。
- ^ ab「正五位勲二等伊沢修二勲章加授ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・大正六年・叙勲巻二」)。
^ 「高嶺秀夫先生年譜」(高嶺秀夫先生記念事業会著 『高嶺秀夫先生伝』 培風館、1921年12月)4-5頁。「東京師範学校第九年報 従明治十三年九月至明治十四年八月」(『文部省第九年報附録』)689頁。
^ 前掲 「高嶺秀夫先生年譜」3頁。
^ 「西周」(国立公文書館所蔵 「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書」)。「東京師範学校年報」(『文部省第十三年報附録』)416頁。
^ 「職員ノ部」(『文部省第十三年報』)10頁。
^ 「従三位勲三等 貴族院議員陸軍少将 山川浩」(杉本勝二郎編纂 『国乃礎後編 下編』 国乃礎編輯所、1895年4月)。
^ 東京高等師範学校『東京高等師範学校要覧』明治44年、p.33-35。日野初蔵(立志期成学会)『官立私立官費貸費入学案内』東江堂書店、大正2年、p.16-19。
^ 山田浩之、「昭和12年の学歴による階層構造を中心にして」 『教育社会学研究』 2000年 66巻 p.177-194, doi:10.11151/eds1951.66.177、p.182の表1
参考文献
- 事典項目
- 熊谷一乗「教員養成〈学制期〉」「東京師範学校」「中学師範学科」、小瀬仁作「教員養成〈教育令期〉」、山田昇「教員養成〈学校令前期〉」「高等師範学校」、倉石庸「教員養成〈学校令後期〉」『日本近代教育史事典』 平凡社、1971年
- 時野谷勝「師範学校」『日本近現代史辞典』東洋経済新報社、1979年
- 巻末付録50「文部省管轄高等教育機関一覧」(尾崎ムゲン作成)も参照。
- 佐藤秀夫「師範学校」『国史大辞典』第7巻、1986年
- 山田昇「東京教育大学」「師範学校」『日本史大事典』第5巻 平凡社、1993年
- 逸見勝亮「師範学校」『日本歴史大事典』第2巻 小学館、2000年
- 船寄俊雄「高等師範学校・女子高等師範学校」『現代教育史事典』東京書籍、2001年
- 秦郁彦(編)『日本官僚制総合事典:1868-2000』東京大学出版会、2001年
- 「主要官職の任免変遷」で「東京文理科大学長(東京高等師範学校長)」が記載。
- 単行書
この節の加筆が望まれています。 |
関連文献
- 『自第一学年至第六学年 東京師範学校沿革一覧』 1880年3月 / 第一書房〈日本教育史文献集成〉、1981年11月
- 『東京高等師範学校 沿革略志』 東京高等師範学校、1911年10月
- 『創立六十年』 東京文理科大学、1931年10月
- 東京文理科大学、東京高等師範学校編纂 『創立七十年』 培風館、1941年10月
- 東京文理科大学 『東京文理科大学閉学記念誌』 1955年7月
- 鈴木博雄著 『東京教育大学百年史』 日本図書文化協会、1978年7月
- 茗溪会百年史編集委員会編 『茗溪会百年史』 茗溪会、1982年2月
関連項目
師範学校 - 師範学校の総体的な制度変遷について記述。
東京師範学校 - 曖昧さ回避ページ。類似する名称の学校について言及。
高等師範学校 - 授業料無料、学生が金銭(学費)を政府から受給、卒業後に教員として働く義務年限、等の制度について言及。- 東京文理科大学
- 東京教育大学
- 筑波大学
東京高師五行之形 - 教授高野佐三郎が制定した剣道の形。
斎藤一 - 晩年、東京高師附属教育博物館の守衛長および高師の撃剣師範を務めた元新選組隊士。- 金栗四三
- 特別科学学級
- 南方特別留学生
外部リンク
筑波大学HP「大学案内」 - 「沿革」(「創基からの沿革図」)・「嘉納治五郎」などのページがある。- 「東京教育大学小史」(東京教育大学新聞会OB会のページ)
社団法人茗渓会 - 「学校および同窓会の沿革」がある。
筑波大学体育ギャラリーST - 常設展に「体操伝習所 1878-1886」「東京高等師範学校(体育科)1886 - 1952」のコーナーがある。
文部科学省「学制百年史」 - 「第一編」各章の「教員および教員養成」の節を参照。- 発祥の地コレクション「近代教育発祥の地」
|
|